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授業内容の補足・推薦図書の追加・言語学よもやま話など


by jjhhori

日本語の「有声音」と「濁音」

今回もこれまた,私が習った先生がお書きになった文章で,迂闊なことを書くと,あれやこれやクレームがくるといけませんので,当たり障りのない話を書くことにします.今回のテキストは,音声学に関わるところもありましたので,音声学ネタで書きます.

日本語の閉鎖音には,ご存じの通り,無声音と有声音の対立があります.例えば,[k] に対して [g],[t] に対して [d] など,いずれも語の意味の区別に関与するわけですから,それぞれ別個の音素に該当します(この辺は,言語学概論の復習ですね).この違いを仮名の上では,濁点「゛」を使って表わすのもご存じの通りです.例えば,「か」に対して「が」,「た」に対して「だ」などですが,しかし,摩擦音になると,無声音と有声音の対応の仕方が閉鎖音のそれの場合と異なってきます.例えば,「さ」に対しては「ざ」ですが,実際の音声をみてみると,「さ」の子音は [s] であるのに対して「ざ」の子音は [z] だけでなく [dz](破擦音といいます)であることもあります.まぁ,[z] と [dz] の違いは,日本語では音声的な違いであって,音素のそれではありませんので,音素レベルで解釈すれば,「さ」と「ざ」も /s/ と /z/ の違い,つまり,無声と有声の対立と見做すこともできるでしょう.

では,「は」はどうでしょうか.「は」の子音は,ごく大雑把に書けば,音声的には [h] ですが,それに濁点が付いた「ば」の子音は,音声的には [b] であり,[h] の有声音ではありません.[b] に対する無声音は [p] ですが,仮名では「ぱ」と書くように,ハ行では,清音と濁音の組が無声・有声という点だけでなく,調音点(口の中の発音する場所)や調音方法(発音の仕方)まで違っていますので,他の行と比べて不規則になっています.なぜこのような複雑なことになっているのかというその理由は,日本語のハ行の子音がかつては [p] であったことと関係があるのですが,ここでは,その詳細については触れません.

ところで,私の2歳7ヶ月になる娘は,2歳3ヶ月ぐらいから平仮名を読み始め,今では,例えば,「ぬ」と「め」,「さ」と「き」など形が似ているものを読み違えることが時々あるものの,大体の平仮名は読めるようになりました.念のために書いておきますと,英才教育とかお受験対策とかそういうつもりは毛頭なく,絵本が一人で勝手に読めるようにするために,試しに教えたところ,次から次へと覚えるので,こちらも面白がって覚えさせたというだけのことです.

その娘が覚えるのにまずひっかかったのがこの濁点つきの平仮名でした.どうやっても濁点を抜かして読んでしまうんです.そこで,ある時,文字を見せずに,「『か』に“てんてん”は『が』.じゃ『こ』に“てんてん”は?」と教えているうちに,ガ行・ザ行・ダ行の読み方をたちどころに覚えてしまいました.まぁ,彼女の小さい頭の中で無声音と有声音の対立がちゃんと認識されていたんですね.これにまず驚きましたが,私が更に驚いたのは,「『は』に“てんてん”は?」と聞いた時です.文字を習った人なら「ば」と答えるところでしょうが,それに対して彼女は,ためらうことなく「あ」と答えたのです.普通の親なら「『ば』でしょ!『ば』!ちゃんと覚えなさい!キーッ!」となるところですが,言語学をやっている異常な(?)親である私は,この答えを聞いた瞬間,思わずニヤッと笑ってしまいました(客観的にみれば,やっぱり怪しい).

上に述べたように,日本語のさまたげ音(閉鎖音,摩擦音,破擦音)系列は,無声と有声の対立を示します(上の /k/:/g/, /s/:/z/ など).この対立がないのは,/n/, /m/, /j/(ヤ行の子音),/r/, /w/ ですが,妨げ音の中では,/h/ だけがこれに対する有声音素がありません.これに対し,服部四郎という言語学者(本裏番組の2004年5月を参照)は,ア行を /’a, ’i, ’u, ’e, ’o/ のように,母音始まりでありながらも子音音素があると解釈し,この /’/ を無声喉頭音素 /h/ に対立する有声喉頭音素と見做すという説を述べています.つまり,
  /ka, ki, ku, ke, ko/ : /ga, gi, gu, ge, go/
が無声と有声で対立するように,
  /ha, hi, hu, he, ho/ : /’a, ’i, ’u, ’e, ’o/
も同様に,無声と有声の対立であるとする解釈です.この /’/ という音素は,一見(一聞)してないものが実はあるものと仮定して設定されたものですが,ア行もこのように解釈することによって,日本語の音節構造(厳密には音節ではありませんが)は /CV/ であると一般化することができます.娘が「『は』の“てんてん”は?」と聞かれて,「あ」と答えた瞬間,私は,服部先生のこの説を思い出し,それでニヤッと笑ったわけです(ちなみに,ハ行のハ以外も同様に,ア行で答えていました).

私たちは,すでに仮名の読み方を知っていますから,「は」に対して「あ」という発想はまずないのですが,まだ文字に毒されていない娘は,音声的な類推から「あ」と答えたのでしょう(その時,文字を見せずに教えたのもひとつの要因かもしれません).その有声喉頭音素というのは,確かに日本語の音節構造を説明するための理論的な虚構物ですが,しかし,無意識のうちには,実は,無声の喉頭音素 /h/ に対するものなのかもしれないと,娘の反応をみながら思いました.

結局,娘には,このまま間違った読み方を教えるわけにもいかず,「『ば』だよ!『ば』!」と教え込んでしまったので,今となっては,ちゃんと「ば」と読めるようになり,それはそれで,嬉しいような悲しいような・・・.ちなみに,言語学者の子供というのは,えてして,親の実験台になる傾向があります.私もできる限り,娘にいろいろな発音を仕込んでおこうと,あの手この手を使っていますが,娘で失敗したら,孫で試そうと,今から遠い将来のことも考えています(笑).
by jjhhori | 2006-06-14 10:38 | ことば