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授業内容の補足・推薦図書の追加・言語学よもやま話など


by jjhhori

危機言語と辞書

今回のテキストは,主に辞書作りの話でしたので,それに関連して,いわゆる「危機言語」の観点から辞書の問題について述べてみたいと思います.

辞書というのは,一般的に,その使う人の用途に応じて,様々なものがあります.例えば,学習者用の辞典であれば,段階に応じて,初級者向け,上級者向けというのがあり,初級者向けであれば,収録語数を絞って,個々の語の意味や用法を詳しく書くことが要求され,逆に,上級者向けであれば,語の意味や用法は必要最低限の記述に留め,収録語数をできるだけ増やすなどといった工夫が必要です.しかし,学習用の辞典で,複数のものが出版され,選択の幅が広いというのは,話者が多く(つまり,それだけ需要が高い),研究者の数も多い言語において可能であり,話者が少ない上に研究者の数が少ない言語においては,そういうことは望むべくもなく,語釈も不完全,語彙数も少ないという,辞書として役に立つのかどうか分からないようなもので満足せざるを得ません.

私が研究しているハイダ語でも,1970年代に作られた,2000語程度の簡単な辞書しかありませんでした.辞書といっても,ハイダ語の見出しに,それに相当する英語の意味が書かれ,動詞や名詞のそれぞれの異形態が簡単に記されているといった程度のものです.その後もその辞書を改修訂し,新たな版を出すということはなく,管見では,ほとんど利用されることもありませんでした.

ところが,そうした中,その欠を補うかの如く,2千ページ以上に及ぶハイダ語辞典(全2巻)が昨年出版されました.どれぐらいの分量かといえば,タウンページ2冊分ぐらいの厚さ.ハイダ語を30年以上にわたって研究してきた言語学者が個人で作り上げたというものです.語釈も詳しく,また,いろいろな用例が載せられ,よくも一人でこれだけのものを作ったと感心せざるを得ない辞書です.いわば,研究社の『英和大辞典』を一人で作ったといってもいいぐらいのものといえば,この辞書のすごさが分かるでしょう.

今まで満足のいく辞書がなかった言語に本格的な辞書ができたというのは,普通であれば,とても喜ばしい出来事です.特に,その言語の話者が少数の高齢者に限られているような場合は,尚更のことです.しかし,残念ながら,ハイダの人たちのこの辞書に対する評価は,極めて冷淡なものでした.実際,ある人は,パラッとめくっただけで,「ダメだ,こりゃ」といってすぐさま辞書を閉じてしまいましたし,ハイダ語の集中講座を取り仕切っている私の友人などは,「自分の知識をひけらかすために,こんなものを作りやがって」などと散々こき下ろしていたぐらいでした.それは,ハイダの人々とその言語学者との間の長年にわたる確執を思えば,十分納得できるものですが,本来,最も必要とする人たちにそっぽを向かれてしまったわけですから,長年かけてつくったこの辞書は,一体何の意味があったのかと思わざるを得ません.

彼らがこうした感想を抱くのは,そうした感情的な理由ばかりではなく,それがuser-friendlyに出来ていないところにも由来すると思います.例えば,見出しの配列をみてみると,ローマ字で表記(これについては後述)されたハイダ語の項目がabc順ではなく,その項目の語頭(厳密には形態素の最初)の音の調音点(発音する場所)で並べられている点がまず大きな障害となっています.つまり,一番最初の見出しが「a」で始まっているのではなく,調音点が前の方である「p」(両唇音)で始まっているわけです.要するに,音声学の知識がないと引けない配列になっているということです.しかも,ハイダ語は,スワヒリ語に劣らないほど,語構造が複雑ですので,スワヒリ語と同様,問題となる語を形態素に分析した上でないと,この辞書は使えません.実際,私も仕事柄(?)使うことがありますが,目的とする語がなかなか見つからず,本当にイライラさせられます. ハイダ語に関する言語学的な知識を持っている(んでしょうな.笑)私ですら,こうなのですから,ましてや,ハイダ語の話者であるじいさんやばあさんたちがこの辞書を使う苦労は,並大抵のものではありません.そもそも,じいさんやばあさんは,音声学の知識などありませんから,どうして最初に「p」で始まる語が置かれているのかその理由がさっぱり分かっていませんし,お年寄りは短気ですから,2千ページもある辞書を一頁ずつ繰って,目的とする語を探そうなどという気持ちは全くありません.「だめだ,こりゃ」というその言葉に,この辞書に対する彼らの感情のすべてが込められているといってもいいでしょう.

この辞書が彼らを遠ざけてしまった第二の理由は,そこで使われている正書法です.ハイダ語はもともと文字がありませんでしたが,上述の1970年代に作られた辞書で用いられた正書法をもとにいろいろな方言の正書法が作られ,その後,学校教育や成人対象のハイダ語集中講座などで使われてきました.しかし,昨年出たその辞書が用いている正書法は,その正書法とは文字の使い方が異なるもので,これがまた,彼らの感情を逆撫でしたわけです.例えば,有声(厳密には無声無気)口蓋垂閉鎖音を,それまでは「g」(下線付きのg)で表わしていたのですが,新しい辞書では「r」という文字を用い,また,これまで無声口蓋垂摩擦音に対して「x」(下線付きのx)を当てていたものを単に「x」で表わし,従来「x」で表わしていた無声軟口蓋摩擦音に「c」を当てるというようなことをやっています.この説明を読んだだけではすぐには理解できないと思いますが,こういう複雑な文字の使い方をしているために,多くの人の反発を買ってしまったのです.正書法に関しては,また別の機会に述べたいと思いますが,いずれにしても,正書法を考える際には,言語学的な正確さだけでなく,彼らが慣れ親しんでいる英語の正書法の慣用もある程度考慮に入れなければならないと思います.それ以外にも,2巻セットで4万円弱というのも,大きな問題です.

この事例は,結局,辞書というのは,どういう利用者を想定しているのか,そして,それに対してどのような工夫を施しているのかが使い手に伝わらなければ,いくら大きくて立派な辞書でも何の役にも立たないということを表わしています.そういった視点がない辞書というのは,それこそ言語学者の自己満足と批判されても仕方がなく,特に危機に瀕した言語の場合は,今必要とする辞書とはどういうものかということを話者や言語教育関係者と模索しつつ,作り上げていかなくてはならないと思います.ハイダ語において必要とされているのは,初級の学習者にとって使いやすく,学習の発展を助けるものですが,言うほどには簡単な作業ではなく,私もまだ暗中模索の段階です.尚,ハイダ語ではなく,韓国語(朝鮮語)の辞書ですが,菅野裕臣・他(編)『コスモス朝和辞典』(白水社,1991年[第2版])は,そういった工夫がされている辞書のひとつとしてお薦めしたいと思います.
by jjhhori | 2006-06-22 23:03 | テキスト