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授業内容の補足・推薦図書の追加・言語学よもやま話など


by jjhhori

鈴木孝夫・田中克彦『対論 言語学が輝いていた時代』

どうもご無沙汰です.この裏番組を始めて今年度で4年目になりますが,最近になって分かったのは,授業実施中は,更新がほとんど不可能なことです.もはや「裏番組」とはいえず,むしろ「特別番組」みたいな感じになってきていますが,ちょうどネタと時間がありましたので,久々に更新したいと思います.

2月のとある日,久々に本屋めぐりをし,今まで気になっていた本を一気に何冊か買い込んできました.今日紹介するのは,そのうちの1冊です.

この本が出ることは前々から知っていましたが,この著者(対談者)のお二人のうちのお一方は,私の恩師が「バカだ」とさんざん評していらっしゃった方であり,そういうのが頭にあったせいか,最初から買うつもりはありませんでした.しかし,本屋で立ち読みし始めたら,特に第1章の「回想の言語学者たち」にはまってしまい,立ち読みするのが面倒になって即お会計,その続きを近くの喫茶店で一気に読んでしまいました.

第1章に登場するのは,服部四郎,村山七郎,亀井孝,江実,井筒俊彦,高津春繁などなど,日本の言語学史において一時代を築いた言語学者であり,その業績や日本の言語学における位置づけ,更に,著作からは伺い知れない人となりや思想が語られ,実に興味深いものがあります.やはりそれは,このお二方が戦後に言語学を始め,それらの言語学者が中心的存在となって言語学を牽引していた,そういう時代の中を経験したからでしょう(ただ,記憶から語られているため,とんでもない間違いもいくつか含まれていますが).

三重のど田舎から「笈を負って」出てきた服部四郎,それを小馬鹿にしていた亀井孝,田中氏の留学のための推薦状を書いている最中に突然ショパンを弾きだす村山七郎などなど,そういった人たちを敬愛の情とそこからくる反発の情で捉えているところが本書の第一章の面白さかもしれません.勿論,そのようなエピソードだけでなく,アメリカ構造主義言語学が日本でどのように受け入れられ,更に,その限界がどのように感じられていたか,更に,本場のアメリカではどのようであったかなど,単に文献を読み解くだけでは感じ得ない,その時代の息吹のようなものが随所に現われています.同時代人として生きた著者がその時代の当事者たる言語学者から直接聞いたことばは,何をおいても興味深いものがあります.

そうした錚々たる言語学者のことばの中ではっとしたのが河野六郎によるソシュールの(弟子が作りあげた)『一般言語学講義』に対する「あんなに実用的な本はない」という批評です.

ところで,1988年(今から20年前です・・・)に出た三省堂の『言語学大辞典』の第1巻に「刊行の辞」というのがあります.これは,編著者3人が話し合って内容を決め,編著者を代表して河野六郎先生がお書きになったものですが,その中に,ソシュールが「常識的で分かりやすい,技術的な術語をいろいろ作り出した」とあります.その直後に例として,共時態と通時態や,ラングとパロールの区別など,具体的にあげられていますが,私は,最初それを読んだ時,「あれ?」と思うと同時に,「言われてみればそうだ」と妙に納得したのを覚えています.「あれ?」と思ったのは,当時の私にとっては,ソシュールはちんぷんかんぷん,それを補うために出された数々のソシュール概説書や理論書の類もちんぷんかんぷんだったからでしょう.まぁ,言語学を学び始めてまだ日の浅い当時の私にしてみれば当然ですけど,そうした経験がソシュールは難解だと思わせたのは間違いありません.

しかし,考えてみたら,その『一般言語学講義』は,ソシュールがジュネーブ大学で行なった講義を聴いた弟子たちが自分たちのノートをかき集めて作り上げたものであり,「あの時のあのことばにはこんな事実が隠されていた!」という一種の謎解きみたいなことをしても仕方ないのかもしれません.まぁ,確かに聞いて分かりにくい授業というのはありますし,表現の仕方の巧拙によって,真意が伝わらないということは十分あり得ますが(苦笑),「私が授業でいうことの真意はね,実はこういうことなんですよ」なんて思いながら,授業をする人など果たしているんでしょうか.まぁ,ソシュール先生と自分の授業を同列に扱うつもりは毛頭ありませんが,ソシュールは,案外,もっと明解なことばで語っていたのかもしれませんし,それを弟子たちが難しくしてしまった,あるいは,後の人がソシュールをあがめるあまり,「実はこうに違いない」と穿った(?)見方をしだしたからかもしれません.ちなみに,河野先生のそのことばを直接聞いた田中氏は,「(ソシュールを)よく分からない人だけがひねくりまわして無理に神秘的にしている」といっています.

さて,本書のタイトルは,「言語学が輝いていた時代」です.では,今はどうなのか.本書によれば,言語学は,「下火どころか,もうほとんどご臨終」だそうです.どうしてそのように思われるのか,その理由は,本書によれば,言語学がまず方法論ありきになってしまい,そこから対象をどんどん限定的にしてしまったからです.まぁ,そういわれると,私にも思い当たる節がありますので,ぐうの音も出ないのですが,英語至上主義,一方では,国語大好き主義(と,仮にいいましょう)がかまびすしい中,言語学が社会に対してどのように存在意義を訴えていくのかを問い直す時に来ているのかもしれません.

本の情報:鈴木孝夫・田中克彦『対論 言語学が輝いていた時代』(岩波書店,2008年)
by jjhhori | 2008-02-24 16:12 | 紹介