授業内容の補足・推薦図書の追加・言語学よもやま話など


by jjhhori

カテゴリ:テキスト( 19 )

私にできる言語学

更新しようと思いながら,いろいろと他の事にかまけていたら,前期最後の授業が終わってから,はや1週間以上が経ってしまいました.

さて,今回は,尊大なタイトルですが,「言語学の数ある研究領域の中で,私にはこれしかできません」という意味で捉えてください.正確には,「私にももしかしたらできる言語学」でしょうか.

今年度前期の最後に読んだテキストは,「私の考える言語学」でした.著者は,チェコの言語学者スカリチカによる言語学の諸分野の3分類,つまり,
 1) 言語とその内部との関係
 2) 言語と他の言語との関係
 3) 言語と言語外現実との関係
の3つの研究領域をあげ,「自然言語を素材とし,言語とその内部との関係を探る」のが「私の考える言語学」であると述べています.

1) と2) の領域は,言語学だけで完結し,また,ある程度の方法論が確立されていますが,3) の領域は,言語学に加えて,様々な補助科学を必要とし,その方法論もあまり固まっていません.その意味において,3) の領域は難しく,1) と 2) は,相対的にまだ取り組みやすいといえます.

しかし,言語学を少しでも勉強した人なら,「いやいや,そんなことはないでしょう.1) の領域といったら,音素とか形態素とか難しい術語が次から次へと出てきてうんざり.でも3) の領域は,ことばと社会とかことばと心理とか,何だかとても面白くて,とっつきやすそうです」と反論することと思います.確かにその通りであり,3) の領域に属する,社会言語学や心理言語学は,自分の経験に照らし合わせて問題を捉えることができるので,一見したところ,面白そうに思える分野です.

しかし,上に述べたように,社会言語学にせよ,心理言語学にせよ,言語学だけで完結するものではなく,それぞれ社会学や心理学などの補助科学をしっかり修めていなければなりませんし,そもそも,方法論が十分に固まっていないために,とっかかりの面白いところから更に一層深く追究しようとすると,途端に行き詰まってしまうことが多いようです.問題は,その行き詰まった時にどうするかという点なのですが,社会言語学の場合,私がみる限り,その助けを社会学に求めるために,言語学からますます遠ざかり,挙句の果てには,言語学ともいえなければ,社会学ともいえない,鵺(ぬえ)みたいな研究が横行しているように思います.それは,上の3分類のうち,1) の領域を疎かにし,社会学に逃げ込んでいるからです.社会言語学であっても,重要なのは,言語とその内部との関係をまずしっかりおさえることであり,そのそれぞれのレベルが言語外現実とどのような関係にあるのかを探らなくてはなりません.1) の領域なくして,2) や3) の研究などできるわけがありません.

勿論,1) の領域とて,方法論が確立しているといっても,それは,3) の領域に比べれば相対的にそうなのであって,実際に1) の領域を細かくみていくと,いろいろな問題があります.言語学においては,一般的に,音素,形態素,語,文などと単位のサイズが大きくなるにつれ,その扱いが難しくなります.これは,それぞれの単位に盛り込まれる情報(意味)が増え,その組み合わせが一層複雑になるからであり,こうなると,どの言語にも妥当する一般的な方法論を確立することが難しくなります.しかし,そうはいっても,他の補助科学の助けを借りることなく,やはり言語学的なアプローチができるわけですから,3) の領域に比べれば,まだまだやりやすいといえるでしょう.

そこで,「私にできる言語学」とは何かという問題に立ち戻ってみると,結局,テキストの著者がいうところの「私の考える言語学」こそが「私にできる言語学」ではないかと思います.勿論,フィールドワークをやっていれば,現実的には,1) の領域ばかりでなく,3) の領域にも踏み込んでいかざるを得ないことがあります.しかし,1) をすっ飛ばして,いきなり3) から入るというわけではなく,土台にあるのは,やはり1) の領域です.1) の領域をしっかりとおさえた上で,関心を徐々に拡げていくのが最も健全なやり方ではないかと思います.

「20世紀の知の巨人」といわれた言語学者ロマーン・ヤーコブソン(1896~1982年)は,「われは言語学者なり,こと言語に関するものにしてわれに無縁のものなしとす」といい,実際に,言語学の領域にとどまらず,文芸評論や失語症,詩学にも大きな足跡をのこしていますが,それは,まさに巨人だからできることであって,凡人の私は,「これしかできない」といいつつも,ここで述べたことの半分もできていないのが現状です(涙).せめて残りの人生,「これだけはやった」といえるものを残したいものです(しみじみ).

さて,今年度もめでたく前期が終わりました.例年ですと,後期の間,ここは完全に放ったらかしになっているのですが,今年は,後期もちょくちょくと更新していきたいと思っています.但し,8月8日から9月7日までは,海外に出る予定でいますが,その間は,通信環境があまりよくありませんので,この「裏番組」の更新ができない点,予めお断りしておきます.
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by jjhhori | 2006-07-19 18:09 | テキスト

危機言語と辞書

今回のテキストは,主に辞書作りの話でしたので,それに関連して,いわゆる「危機言語」の観点から辞書の問題について述べてみたいと思います.

辞書というのは,一般的に,その使う人の用途に応じて,様々なものがあります.例えば,学習者用の辞典であれば,段階に応じて,初級者向け,上級者向けというのがあり,初級者向けであれば,収録語数を絞って,個々の語の意味や用法を詳しく書くことが要求され,逆に,上級者向けであれば,語の意味や用法は必要最低限の記述に留め,収録語数をできるだけ増やすなどといった工夫が必要です.しかし,学習用の辞典で,複数のものが出版され,選択の幅が広いというのは,話者が多く(つまり,それだけ需要が高い),研究者の数も多い言語において可能であり,話者が少ない上に研究者の数が少ない言語においては,そういうことは望むべくもなく,語釈も不完全,語彙数も少ないという,辞書として役に立つのかどうか分からないようなもので満足せざるを得ません.

私が研究しているハイダ語でも,1970年代に作られた,2000語程度の簡単な辞書しかありませんでした.辞書といっても,ハイダ語の見出しに,それに相当する英語の意味が書かれ,動詞や名詞のそれぞれの異形態が簡単に記されているといった程度のものです.その後もその辞書を改修訂し,新たな版を出すということはなく,管見では,ほとんど利用されることもありませんでした.

ところが,そうした中,その欠を補うかの如く,2千ページ以上に及ぶハイダ語辞典(全2巻)が昨年出版されました.どれぐらいの分量かといえば,タウンページ2冊分ぐらいの厚さ.ハイダ語を30年以上にわたって研究してきた言語学者が個人で作り上げたというものです.語釈も詳しく,また,いろいろな用例が載せられ,よくも一人でこれだけのものを作ったと感心せざるを得ない辞書です.いわば,研究社の『英和大辞典』を一人で作ったといってもいいぐらいのものといえば,この辞書のすごさが分かるでしょう.

今まで満足のいく辞書がなかった言語に本格的な辞書ができたというのは,普通であれば,とても喜ばしい出来事です.特に,その言語の話者が少数の高齢者に限られているような場合は,尚更のことです.しかし,残念ながら,ハイダの人たちのこの辞書に対する評価は,極めて冷淡なものでした.実際,ある人は,パラッとめくっただけで,「ダメだ,こりゃ」といってすぐさま辞書を閉じてしまいましたし,ハイダ語の集中講座を取り仕切っている私の友人などは,「自分の知識をひけらかすために,こんなものを作りやがって」などと散々こき下ろしていたぐらいでした.それは,ハイダの人々とその言語学者との間の長年にわたる確執を思えば,十分納得できるものですが,本来,最も必要とする人たちにそっぽを向かれてしまったわけですから,長年かけてつくったこの辞書は,一体何の意味があったのかと思わざるを得ません.

彼らがこうした感想を抱くのは,そうした感情的な理由ばかりではなく,それがuser-friendlyに出来ていないところにも由来すると思います.例えば,見出しの配列をみてみると,ローマ字で表記(これについては後述)されたハイダ語の項目がabc順ではなく,その項目の語頭(厳密には形態素の最初)の音の調音点(発音する場所)で並べられている点がまず大きな障害となっています.つまり,一番最初の見出しが「a」で始まっているのではなく,調音点が前の方である「p」(両唇音)で始まっているわけです.要するに,音声学の知識がないと引けない配列になっているということです.しかも,ハイダ語は,スワヒリ語に劣らないほど,語構造が複雑ですので,スワヒリ語と同様,問題となる語を形態素に分析した上でないと,この辞書は使えません.実際,私も仕事柄(?)使うことがありますが,目的とする語がなかなか見つからず,本当にイライラさせられます. ハイダ語に関する言語学的な知識を持っている(んでしょうな.笑)私ですら,こうなのですから,ましてや,ハイダ語の話者であるじいさんやばあさんたちがこの辞書を使う苦労は,並大抵のものではありません.そもそも,じいさんやばあさんは,音声学の知識などありませんから,どうして最初に「p」で始まる語が置かれているのかその理由がさっぱり分かっていませんし,お年寄りは短気ですから,2千ページもある辞書を一頁ずつ繰って,目的とする語を探そうなどという気持ちは全くありません.「だめだ,こりゃ」というその言葉に,この辞書に対する彼らの感情のすべてが込められているといってもいいでしょう.

この辞書が彼らを遠ざけてしまった第二の理由は,そこで使われている正書法です.ハイダ語はもともと文字がありませんでしたが,上述の1970年代に作られた辞書で用いられた正書法をもとにいろいろな方言の正書法が作られ,その後,学校教育や成人対象のハイダ語集中講座などで使われてきました.しかし,昨年出たその辞書が用いている正書法は,その正書法とは文字の使い方が異なるもので,これがまた,彼らの感情を逆撫でしたわけです.例えば,有声(厳密には無声無気)口蓋垂閉鎖音を,それまでは「g」(下線付きのg)で表わしていたのですが,新しい辞書では「r」という文字を用い,また,これまで無声口蓋垂摩擦音に対して「x」(下線付きのx)を当てていたものを単に「x」で表わし,従来「x」で表わしていた無声軟口蓋摩擦音に「c」を当てるというようなことをやっています.この説明を読んだだけではすぐには理解できないと思いますが,こういう複雑な文字の使い方をしているために,多くの人の反発を買ってしまったのです.正書法に関しては,また別の機会に述べたいと思いますが,いずれにしても,正書法を考える際には,言語学的な正確さだけでなく,彼らが慣れ親しんでいる英語の正書法の慣用もある程度考慮に入れなければならないと思います.それ以外にも,2巻セットで4万円弱というのも,大きな問題です.

この事例は,結局,辞書というのは,どういう利用者を想定しているのか,そして,それに対してどのような工夫を施しているのかが使い手に伝わらなければ,いくら大きくて立派な辞書でも何の役にも立たないということを表わしています.そういった視点がない辞書というのは,それこそ言語学者の自己満足と批判されても仕方がなく,特に危機に瀕した言語の場合は,今必要とする辞書とはどういうものかということを話者や言語教育関係者と模索しつつ,作り上げていかなくてはならないと思います.ハイダ語において必要とされているのは,初級の学習者にとって使いやすく,学習の発展を助けるものですが,言うほどには簡単な作業ではなく,私もまだ暗中模索の段階です.尚,ハイダ語ではなく,韓国語(朝鮮語)の辞書ですが,菅野裕臣・他(編)『コスモス朝和辞典』(白水社,1991年[第2版])は,そういった工夫がされている辞書のひとつとしてお薦めしたいと思います.
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by jjhhori | 2006-06-22 23:03 | テキスト

「抱合」について

今回もテキストについてあれこれ書くと,いろいろと差し障りがありますので,テキストの内容については,あまり触れません(どうか事情を察してください!).幸い,授業において,抱合と複統合の違いに関する質問が出ましたので,今回は,それについて書きます.相当難しいですが,最後まで読み通してください.

まず,「抱合」というのは,自立的に現われ得る名詞と同じく自立的に現われ得る動詞が合体し,ひとつの動詞として機能する語を形成することをいいます.言い換えれば,名詞と動詞からなる合成動詞の一種であり,動詞が名詞をいわば抱きかかえるので,「名詞抱合」といいます.例えば,イロッホ語(Iroh)において “ska”「鹿」という名詞と“koros”「殺す」という動詞があった場合,それらを合成させた表現,すなわち,

  was-ska+koros-ta 「私が鹿を殺した」
    (was-:1人称単数主語,-ta:過去)

これが名詞抱合の例といえます(ハイフンは接辞の境界,+は合成を表わします).この場合,was-という1人称単数主語を表わす接頭辞と-taという過去を表わす接尾辞がその名詞と動詞が合わさっている形式(ska+koros)をいわば挟み込むようについていることで,この例は,ひとつの語であることが分かります.

これに対し,“ska”「鹿」,“koros”「殺す」がそれぞれ別々に(つまり,自立的に)現われることもあります.すなわち,

  ska-rur was-koros-ta 「私が鹿を殺した」
  鹿-を   1単主-殺す-過去

この場合は,上の「私が鹿を殺した」というのを,“ska-rur” と “was-koros-ta” の2語で表わしており,上の抱合的表現に対して,分析的表現といいます(つまり,「私が鹿を殺した」という概念を表わすのに二つの方法があるということです).ここで重要なのは,分析的表現で現われる名詞 “ska” と動詞 “koros” が,抱合的表現でもほぼ形をかえずに,そのまま現われているという点です.つまり,分析的表現と抱合的表現の両者において,用いられる名詞と動詞がほぼ同じ形式(あるいは,形式の上で関連付けることが可能)である点を押さえておいてください.

翻って,エスキモー語はどうでしょうか.テキストにあげられている例を再度,下に示します.

 qayar-pa-li-yug-a-qa
 カヤック-大きな-作る-たい-直説法他動詞-1人称単数主語・3人称単数目的語
 「俺はお前に大きなカヤックを作ってやりたい」

一見したところ,「カヤック」とか「作る」など,それぞれ名詞や動詞的概念がひとつの語の中で表わされている点で,上のイロッホ語の抱合的表現と似ているといえます.しかし,エスキモー語の場合,自立的に現われるのは,“qayar”(但し,自立的に現われる場合の形式は,“qayaq”)だけで,「作る」という概念を表わす-li はあくまでも接尾辞(つまり,他の要素に必ず付いて現われるもの)であって,自立的には決して現われることがありません.その点が自立的に現われ得る名詞と動詞を合成させてひとつの語を作ることのできるイロッホ語との大きな違いです.

一方,「複統合的」というのは,ひとつの語の中にどれだけ多くの形態素を含みこむことができるかという点(これを「統合度」といいます)からみた分類のひとつで,エスキモー語のように,ひとつの語の中に,かなり具体的な概念を表わす要素も多く盛り込むことができる言語をいいます.勿論,イロッホ語も名詞を抱合することによって,結果的にはひとつの語の中に多くの形態素を取り込んでいるわけですから,やはり「複統合的言語」ということができます.つまり,イロッホ語は,抱合的言語であると同時に複統合的言語であるといえますが,エスキモー語は,複統合的言語とはいえても,抱合的言語というのは適切ではないということです.

現在出されている言語学の入門書においては,この「複統合的」と「抱合的」を混同していたり,その両者を同一視していたりしているのがほとんどで,その両者の違いをきっちり書いているのは,皆無に近い状態です.この両者の用語の混同は,すでに20世紀初頭においてありましたが,その両者の違いを説き,抱合の最も明解な定義を与えたのは,言語学概論でおなじみのサピアです.「アメリカ諸言語における名詞抱合」という1911年の論文で,サピアは,具体例を示しつつ,抱合とは何かという問題を見事に解決しています.ちなみに,この論文,サピアが27歳の時のものですが,その論文を読むにつけ,自分は27歳の頃,一体何をやっていたのだろうと,サピアの天才ぶりと自分の凡才ぶりを比べては,ため息をついています(改めてため息).

[註]上にあげたイロッホ語は,架空の言語です(まぁ,逆から読めば・・・).
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by jjhhori | 2006-06-09 14:16 | テキスト

「能格」について

今回は,かなり高度な内容,しかも,言語学を専門とする人ですら,あまり理解していないものを扱いましたので,その復習ということで,「能格」について,もう一度ここで触れておきたいと思います(もう一つの「抱合」については,別の機会にします).

「能格」について説明する前に,術語の整理をしておきましょう.まず,述語が自動詞である文を「自動詞文」(例:「一郎が走った」「二郎が酔っ払った」など),他動詞である文を「他動詞文」(例:「三郎が四郎を殴った」「五郎が六郎を殺した」など)といいます.ここで問題となるのは,自動詞文の主語となる名詞(以下,Sとします),また,他動詞文の主語となる名詞(以下,Aとします)と目的語となる名詞(以下,Oとします)がそれぞれどのような標識で表わされるかという点です.

まず手近なところで日本語をみてみますと,上の例にもあるように,

 自動詞文:一郎-ガ[S] 走った
 他動詞文:三郎-ガ[A] 四郎-ヲ[O] 殴った

自動詞文の主語「一郎」と他動詞文の主語「三郎」が同じ標識「ガ」で示され,他動詞文の目的語「四郎」だけが「ヲ」という違う標識で示されています.言い換えると,「ガ」は自動詞の主語と他動詞の主語の標識として使われるのに対し,「ヲ」は他動詞の目的語の標識として使われているということです.このように,自動詞の主語と他動詞の主語が同じ標識(これを「主格」といいます)で表わされ,他動詞の目的語だけが特別な標識(これを「対格」といいます)で示される言語を「主格・対格型」といいます.

これに対するのがここで問題となる「能格型」言語です.能格型においては,普通,自動詞の主語と他動詞の目的語が標識を一切とらず,他動詞の主語だけが特別な標識で示されます.例えば,能格型のひとつであるエスキモー語においては,自動詞文と他動詞文は,以下のように表わされます(0はゼロの標識,すなわち,何も付いていないことを表わします.便宜上,問題となる標識だけエスキモー語の形式で示します).

 自動詞文:一郎-0 [S] 走った(日本語訳:一郎が走った)
 他動詞文:三郎-m [A] 四郎-0 [O] 殴った(同:三郎が四郎を殴った)

この二つの文で,自動詞の主語「一郎」と他動詞の目的語「四郎」が同じ標識(-0:これを絶対格といいます)で示されているのに対し,他動詞の主語「三郎」だけが特別な標識(-m:これを能格といいます)で示されていることに注意してください(但し,エスキモー語学では,この-mを「関係格」と称しています).言い換えれば,絶対格は,自動詞の主語と他動詞の目的語を表わす標識として使われているのに対し,能格は,他動詞の主語を表わす標識として使われています.このように,自動詞の主語と他動詞の目的語を同じように扱い,他動詞の主語だけを特別扱いするのが能格型の言語の特徴です.

以上述べてきたことを,自動詞主語(S),他動詞主語(A),他動詞目的語(O)を表わす標識の異同によって整理しますと,

 主格・対格型:S=A≠O
 能格型:S=O≠A

ということになります.尚,理論的には,A=O≠S(すなわち,自動詞の主語だけ特別な標識をとる)という型も考えられなくもありませんが,実際には,こうした言語は,今のところ報告されていません.

ところで,自動詞の主語と他動詞の目的語を同じ標識で表わすというのは,一見,奇異に思われるかもしれませんが,日本語でも,その昔は,「花-0[S] 咲く」(自動詞文)「花-0[O] 見る」(他動詞文)といっていたのをみれば,能格型というのは,決して特異なものではありません.日本語の場合,格助詞が整備される以前は,むしろこうした表現の方が一般的だったわけで,現代の日本語において「ガ」と「ヲ」が用いられるようになる前は,(完全とはいえないまでも)多少能格的な性格があったのかもしれません.実際,現代でも口語では,格助詞を使わない表現の方がよく観察されます(例:「私帰る」「レポートやってない」など).

まぁ,言語学概論を聞いて2ヶ月かそこらで,能格を理解しろというのが土台無理な話です.しかし,いずれは,授業の中で出てきますので(たぶん),その時が来たら,このページを再度読み返してみてください.尚,能格について興味がある人は,千野栄一『注文の多い言語学』(1986年,大修館書店)の中の「特別料理『エルガティーフ』」というのをご覧ください(「エルガティーフ」は,「能格」のことです).その特別料理,おいしいかどうかは,読む人次第です.ちなみに,私が最初それを読んだのは,大学1年の時でしたが,あんまりおいしくなく,すぐに吐き出してしまいました(苦笑).
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by jjhhori | 2006-06-01 21:05 | テキスト
私がこの本を読んだのは大学2年の時.「言語学概論」で,担当の先生(この「裏番組」に何度も出ています)が最初の授業で紹介された2冊の本のうちの一冊がこれで(あとの一冊はいずれ出てきます),その先生は「この本を読んでつまらないと思ったら,この授業に出ちゃダメです」とまでおっしゃっていました(ちなみに,私が受けた「言語学概論」は選択科目でした).そこまでおっしゃるならと思い,従順だった,否,従順である私は,早速書店に行って,この本を買い,パラパラと読み始めたが最後,その日のほとんどをこの本に使ってしまいました.

特に,授業で取り上げた「ネズパース語研究一日目」を読んだ時の感動というのは,いまだによく覚えています.数詞の1から10までを聞いただけで,たちどころに次から次へと様々な問題に考えをめぐらす,その直観に驚嘆しました.そして,「あー,これが言語学というものか」と思うと同時に,「自分もやってみたいなぁ」などと漠然と思ったものでした.文字がなく,しかも,あまり研究のされていない言語を自分の力で解き明かしていく,その過程が実に魅力的に思えたわけです.極めて素直で単純な性格です.

今,私自身も北米先住民の言語の一つであるハイダ語を実際に研究しているわけですが,勿論,この本を読んだ当時は,自分が北米先住民の言語の記述に関わるなど,思ってもいませんでした.まぁ,どうしてそんな道に行ってしまったのか,その辺の話は別の機会に譲るとして,私自身の調査の第一日目は,こんな華麗なものではなく,当時90歳のおばあさんがお発しになるハイダ語だか英語だか分からない「ガラガラ,ッカー,ヒュルルルゥー」という音声学を超越した様々なオトに悩まされるという相当惨めなものでした.ま,今にして思えば,笑ってすませられる話ですが,当時は,大きな海原をひらひらと渡る一匹の蝶のような気持ちで,この先,この言語の研究が続けられるのだろうかと,本当に不安に思ったものでした.

自分が言語調査というものをいくばくか経験した後にこの本を読むと,「あー,それ,分かる,分かる」と思わず納得する箇所がいくつかあります.例えば,55頁に「仕事慣れがしないときは,気疲れがするものである.言語学者はことばの問題と,取り組まなくては安心できない」というのは,その一つ.私自身もやはり言語と取り組んでいる時が一番安らぐわけで,例えば,話者の人たちとの都合がうまく付かず,「じいさん/ばあさん待ち」をしている間は,気ばかり焦って,段々不安になってきます(ま,実際は,その時とばかり,遊んでいますが).逆に,調査による忙しさは,全く苦にも感じず,「あ,気が付いたら,もうこんな時間!」ということがしばしばです.私の授業を受けているみなさんとは逆の心境ということですね(申し訳ない話です).

勿論,この本では,こうした調査の面白さばかりが描かれているわけではなく,その陰の部分も書かれています.例えば,いわゆる「文化住宅」に押し込められたネズパースのおばあさんが何ヶ月かにわたって積み上げられた鮭の残骸と山のようになった汗臭い衣類の中で暮らす様子が紹介されていますが,それは,そのおばあさんがそれまでの伝統的な住居であったティーピーでの生活スタイルをそのまま文化住宅に持ち込んだからです.著者は,伝統文化の長所を失い,白人文化の長所が活かされていないと述べ,「一方的な近代化の理論」を批判しています.こういった問題は,すぐれて政治的で,また,個人で解決し得るものではありませんし,また,どこからどのように手をつけていいのか,部外者にはすぐに分かるものではありません.単なる同情心だけでは,解決し得ない,極めて繊細な問題だからです.ただ,こうした問題がネズパース族だけでなく,世界のいたるところで起きているということを世間に訴えていく必要はあります.本書は,言語学の面白さを学ぶだけでなく,そうした先住民の問題を考えるひとつのきっかけを与えてくれるものだと思います.

授業で使ったテキストは,1984年から出た「新版」ですが(元は1972年刊),その後,1998年に岩波書店から「岩波同時代ライブラリー」の一つとして復刊されました.しかし,それも絶版となってしまい,入手することが困難になってしまいました.全体を通して読んでみたいという人は,喜んでお貸ししますので,いつでも申し出てください.ま,私に借りたがために絡まれるのがイヤだという人は,古書店を探し歩くか,図書館で借りることをオススメしますが.
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by jjhhori | 2006-05-11 10:38 | テキスト
言語学者は,人間の言語知識の2つの現実,すなわち,普遍性と多様性の間に作用する均衡的な緊張を称えるものである.しかし,言語の多様性は,将来も当然あるというわけではなく,多くの言語や文化が大きな危機に直面している.言語の多様性は,単に科学的な言語の探求にとどまらず,文化や芸術に属する様々な人間の活動との関係においても,人間の知的生活にとって重要である.

もし英語が唯一の言語であった場合,文法の基本原理について多くを学ぶことができようが,多様であり得る文法の性質については,これを推測し得るにすぎず,人間の言語能力の重要な点を失うことになろう.例えば,数の範疇に関わる対立についてみてみようと,英語だけを考察したところで,何も得るところはなく,数の対立(例:catとcats)が [±singular] と [±plural] のどちらで規定されるかは,ほとんど意味のない問題である.しかし,英語以外に,双数をもつ言語(例えば,ホピ語)もこの世にあったとしたら,その問題は,有意義なものとなる.このように,文法のどの領域をとってみても,言語学者の研究に対して言語の多様性が価値を有することは,明らかである.

世界の言語の多様性が貴重な資源であるという考えは,いうまでもなく,言語科学だけから導き出されるわけではない.言語は,文法以上の存在であり,広範にわたる人間の能力を包含し,それを使う民族の知的財を具現するものである.言語とその話者の知的産物は不可分のものであり,例えば,韻文,歌などのいくつかの言語芸術は,言語の形態的,音韻的,更には統語的特性に依存する.まさに芸術は,言語なしには存在し得ない.この依存関係がこれほど有機的ではない場合においても,知的伝統は,その言語とは切り離せないほどに,民族の言語民族誌の一部となっている.

こうした中にあって,それぞれの地域の言語とそれによって表わされる文化体系の喪失は,多様で興味ある知的財の取り返しのつかない喪失を意味する.

<以下,著者自身が1960年代に調査をしたオーストラリアのLardil語と,その補助言語であるDamin語の話が続く.Damin語は,ある儀式を経た成人男性が習得するもので,その地域に派遣されたキリスト教の布教団によってその儀式が禁止されてからは,Damin語の習得ができなくなり,1960年の時点で話せる人はごくわずかであった.いわゆる人工語の一つであるが,音韻面では,オーストラリアの諸言語にはみられない吸着音や世界の言語にはみられない吸気による無声側面音などがあり,語彙面では,かなり抽象化した概念を表わすなど,特異な特徴を示す(形態統語法は,Lardil語とかわるところがない)>.

Damin語は,失われてしまった事物の本質の例であり,また,言語的・文化的多様性がなくなってしまったら何が失われるかを示す例でもある.一方,言語と文化の多様性を保護することは,知的努力の伝統を永久保存することを保障するものではない.現存する伝統は変化を含意し,新しい伝統が発達するのは,まさにその地域の言語が活力をもっている場合である.

消え行く伝統を記録することはいいことであり,文化的財の完全な喪失をさけるには絶対的に必要であるが,より大きな目標は,人々の世界における多様性を守ることであろう.それこそ,多様で興味のある知的伝統が育つ環境であるからである.Damin語の例にかえってみるならば,その価値を認めるに十分な記録はあるにせよ,それがどのように変容したか,あるいは,一番重要なこととして,Lardil族の知的生活において,Damin語がどのような役割を果たしたかということに関しては,全く分からない.Lardil族が21世紀に向かってDamin語を習って使うことができるような文化的多様性を保障する安全な環境がなかったために,未来においても,その問いに対する答えを知ることはない.

Hale, Ken 1992. Language endangerment and the human value of linguistic diversity. Language 68 (1): 35-42.
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by jjhhori | 2005-06-19 21:25 | テキスト
アメリカ言語学会の機関誌 Language の1992年(第68巻1号)では,「危機言語」に関する特集を組み,Hale, Krauss, Watahomigie and Yamamoto, Craig, Jeanne, England がそれぞれの立場から危機言語の問題をどのように捉えるかを述べています(そのうち,クラウス論文に関しては,以下の記事参照).ここに紹介するのは,それらの見解に対するラディフォギッドの反論です.

言語の保持と維持は,異なった見解が可能であるように,多面的な問題である.ヘイルたちが述べている危機に瀕する言語の話者の態度は,一般的なものではなく,実際,アフリカには,それが当て嵌まらない国もある.確かに,多くのコミュニティにおいて,言語は神から与えられた神聖なるものと見做されているが,その一方で,言語を神聖ならざるものとする見方もある.例えば,南インドのニルギリ丘陵で話されるトダ語(ドラヴィダ語族)の話者たちは,自分たちの言語を記録する言語学者を歓迎し,若者の多くは,先祖を尊敬するが,その一方で,現代のインドの一部でありたいとも思っている.つまり,彼らは,その犠牲として自分たちの言語を放棄することも認めており,そうしないように彼らを説得するのは,理非をわきまえた言語学者のすることではない.

様々な言語,様々な文化は常に保存されなければならないというヘイルたちの説く仮説はどうであろうか.そのコミュニティにとって何が最善かを言語学者は知っていると決め込むのは,言語学者の家父長的温情主義的な干渉である.「動物種の絶滅が我々の世界を小さくするのと同様,言語の絶滅も我々の世界を小さくする」(Krauss 1992:8)というのは,感情に訴えるものであって,理性に訴えるものではない.危機言語の研究というのは,言語学的な理由がしっかりとしているが,しかし,我々は,政治的な配慮に基づく議論に慎重であるべきであり,自分たちが研究している言語の話者の懸念することに敏感であらねばならない.

更に,我々は,人間の社会は動物の種のようではないことにも注意する方がよい.様々な文化がいつも滅ぶ一方で,新しい文化も興っている.一般的には,世界はますます均質化に向かいつつあるというが,それは,新しく生じている差異を我々がみていないからそのように感じるのである.例えば,ブッシュマンのZhu|oasi 族と!Xoo 族は,互いに意思疎通が図れないほどに隔たった言語(但し,ともに同じコイサン語族に属する)を話すが,他の点においては極めて似通った振る舞いをする.これらの2つのグループは,アパラチア地方の炭鉱夫やアイオアの農家,ビバリーヒルズの法律家よりも文化的に異なっているのであろうか.

この移ろい行く世界において,言語学者の仕事は,所与の言語状況に関わる事実を説明することである.我々は,かつてウガンダにおける言語状況に関するデータを集め,ウガンダで話される主要な言語間の類似点や相互理解の程度を明らかにすることを試みた.我々は,政府が言語状況を評価できるようにそれらのデータをまとめたが,その状況を変えたり,維持するのに必要な犠牲や代価を決しようとはしなかった.ウガンダが直面する苦しみと言語の消失を我々が比較考量したとすれば,それは,でしゃばりであったであろう.

1991年の夏,ケニヤで数百人が話すクシ語族の1つで,ダハロ語という急速に失われつつある言語の調査をした時のことである.私は,言語協力者の1人に10代の息子がダハロ語を話すかどうかを尋ねてみたところ,その協力者は,「聞くことはできるが,話すことはできず,スワヒリ語しか話せない」と,微笑みながら答え,それを悔いている様子でもなかった.私は,その協力者が間違っているといえるのであろうか.

Ladefoged, Peter. 1992. Another view of endangered languages. Language 68 (4): 809-11.
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by jjhhori | 2005-06-07 18:19 | テキスト
5月24日の授業で紹介があったクラウス論文の要約です.

言語の危機(language endangerment)は,生物学的種の危機に匹敵するものであるが,その観点から言語を分類すると,

1) 「瀕死の状態にあるmoribund」言語:子供たちがすでに学ばなくなっている言語.
2) 「危機に瀕したendangered」言語:21世紀の間に子供たちが学ばなくなる可能性のある言語.
3) 「安泰なsafe」言語:1) にも 2) にも属さない言語.

の3つの範疇に分けることができる.地域別にみてみると,南北アメリカでは900言語のうち3分の1の言語,また,オーストラリアでは,250言語の90%が瀕死の状態にある.

様々な要因が絡むために,それぞれの範疇に属する言語の数を確定するのは難しいが,仮に世界の言語の数を6千とした場合,国家語あるいは公用語などの地位にあり,話者数が多い 3) に属する言語は,その10%(つまり600言語)であり,それを除けば,残りの90%の言語が21世紀の間に消滅あるいはその運命に遭うとみられる.これは,例えば,8600種のうち231種が危機に瀕した,あるいは,その危機が迫っている(threatened)とする生物学における統計よりもはるかに深刻な数字である.絶滅に瀕する生物種の保護に対しては,様々な組織や団体があり,様々な活動が行なわれているが,言語に対する一般の関心は低いのが現状である.

こうした状況に対して,言語学は何をすべきか?まず何をおいてもそれらの言語を記述する,つまり,文法書,辞書,テキストの整備をしなくてはならない.特に当該の言語が系統的に孤立している,あるいは類型的に特異であれば,その記述は一層急を要する.こうした言語の記述は,科学にとって価値があるばかりでなく,その民族にとっても宝となる.更に,その言語の記述があれば,例えば学校や儀式などにおいて,言語が慣習として制度化されるための重要な役割を確立することも可能であり,場合によっては,その最後の話者が亡くなった後でもその言語を復活させることができるかもしれない.

更に,教育の面,文化の面,そして政治の面でその言語が生き残るチャンスを増やすためにも,教材の開発なども必要である.それには,コミュニティー,政府機関などとも協力しなくてはならない.

大学や言語学の専門集団は,研究と教育の優先をどこにおくかについて相当な影響をもつが,危機言語の問題に関連して,言語学の役割は何かを最後に問うてみたい.現代の言語学において危機言語はどの程度優先されるのか,世界のどの言語が最も注視されるのか,大学院生には,学位論文のためにこういった言語の記述をするよう促すのか,1言語の辞書をつくるのにどれぐらいの労力が必要なのか,危機言語を援助するために応用言語学的な研究を促すか,それらの言語の話者に対して必要で適切な訓練をするか.自分たちが研究教育において何を優先させるべきか,今こそ真剣に再検討しなくてはならない.

Krauss, Michael E. 1992. The world's languages in crisis. Language 68 (1): 4-10.
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by jjhhori | 2005-05-30 18:44 | テキスト

危機言語関係のサイト

テキストを読み進めるにあたり,特に発表者にとって有益と思われる情報を載せた日本語のサイトをいくつか紹介します.ここに紹介するサイトのリンクなども参照して,レジュメ作成の際に大いに役立ててほしいと思います.但し,それぞれのページの更新頻度は区々であり,情報が古いものも含まれていることを予め断っておきます.

1つ目は,日本言語学会の中に設置された「危機言語小委員会」のホームページ.「危機言語とは何か」という基本的な問題から危機言語に関するシンポジウムや日本語の文献などを紹介しており,また,海外の危機言語関係の団体や諸機関へのリンクも充実していて有益です.

2つ目は,東京大学言語動態学研究室の「危機言語ホームページ」.アイヌ語を始めとする危機に瀕する言語の文献リストがあり,それらの言語の文法書・辞書・テキストに関する情報が得られます.

3つ目は,1999年度から2003年度にかけて行なわれた文部科学省科学研究費補助金によるプロジェクト「環太平洋の『消滅に瀕した言語』にかんする緊急調査研究」のホームページ.これは,主に環太平洋地域で危機言語に取り組む日本人の言語研究者を総動員し,日本語の方言,アイヌ語も含め,東南アジア,北東アジア,南北アメリカなどを範囲として行なわれたプロジェクトの活動報告です.このプロジェクトの成果の一つとして出版された宮岡伯人・崎山理(編)『消滅の危機に瀕した世界の言語:ことばと文化の多様性を守るために』(明石書店)には,研究の進行状況や課題,各地の危機言語に関する最新の情報が盛り込まれていますので,発表に際し,是非とも参考にしてほしいと思います(言語学共同研究室にありますので,必要な場合には,私まで申し出てください).

これら以外にも英語によるサイトは,数多くありますが,それらは,上3つのサイトにあるリンクから行けるようになっていますので,そちらを参照してください.

テキストを単にまとめるだけでは発表にはなりません.自分が担当する範囲で何が問題となっているのかを見極めて,それを深く追求するという姿勢で発表に臨んでほしいと思います.目の付け所が悪かったら,それはそれで困りものですが(苦笑).

この「裏番組」もなるべく更新の頻度を上げていきたいと思っています(が,どうなることやら・・・).
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by jjhhori | 2005-05-18 12:08 | テキスト

言語

言語学がどういう学問かを知るには,テキストにあげられている入門書3冊を読めばそれでおしまいなので,もうこれ以上書くことはありません.ここで著者がおっしゃっている真意について私なりに付言しますと,言語学が分かるようになるには,入門書の類をたくさん読んだりしても無駄で,自分の知らない言語の文法書を丁寧に読むことこそ言語学の理解につながるということです.これは,著者が常々おっしゃっていたことですし,もとをたどれば,河野六郎先生がおっしゃっていたことでもあります.つまり,日本語や英語しか知らないという硬直した言語観ではなく(しかし,日本語や英語の研究者にはこの手の連中が多い!),言語のみせる様々な事象に触れることによって,自身の言語観を膨らませるのが言語学を理解するための道といえます.戒めるべきは,日本語とヨーロッパの言語を少しかじって,「そもそも言語というのは」などといった安易な一般論を出すことです.

ところで,テキストにあげられている入門書のうち,ユアン・レン・チャオ『言語学入門-言語と記号システム-』については,私もよそで紹介しましたので,そちらをご覧ください.著者の趙元任(Yuen Ren Chao)も私が私淑する言語学者のひとりで,中国語学だけでなく,言語学でも大きな足跡をのこしたにも拘わらず,まとまった著作集というのは,これまであまり出版されていませんでした.その分野が言語学だけでなく,物理学や数学,更には音楽までに及ぶので,全集の類はまず出ないものとあきらめ,ならば自分で集めようと,趙元任の書いたものをこれまでせっせと集めていたのですが,この間,神田の某書店に行ったら,『趙元任全集』なるものを発見し,久々に衝動買いしてしまいました.出たのはまだ第1巻だけ,店員さんに聞けば,1年に1巻の割合で出していくとのこと.全部で20巻,つまり娘が成人する頃に全巻完結するのか・・・(苦笑).でも中国だからねぇ,私が生きている間に完結するんだろうか.

それでは,みなさん,夏休みのレポート,楽しみにしています.頑張ってください.このページの更新の頻度は落ちますが,気が向いたら,また何か書こうと思っています.「あ,そういえば」と思い出した時に,ぜひお立ち寄りください.
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by jjhhori | 2004-07-29 15:52 | テキスト