授業内容の補足・推薦図書の追加・言語学よもやま話など


by jjhhori

カテゴリ:テキスト( 19 )

対照言語学

言語学は,実用性に乏しい学問で,言語学で培われた知識があろうとなかろうと,直接的に私たちの生活に害が及ぶことはありません.しかし,それでも,語学教育(テキストの開発,辞書の作成など),言語の機械処理(機械翻訳,音声工学など)などなど,その実用性が発揮される分野もいくつかあります.ただ,現実的には,言語の機械処理は,言語学プロパーよりも,むしろ工学系の人の手による研究が中心で,言語学の人が自らすべて開発していることはまずなく,しかも他の分野の補助がどうしても必要になってきます.

その中で,対照言語学は,言語教育に資するという点で,言語学プロパーにおける実用性の高い分野の1つです.勿論,言語教育にとどまらず,言語類型論にも発展し得る,魅力的な分野です.しかし,2つの言語にある何を比べるかによって,その出来不出来が決まってきます.つまり,比べる軸がしっかりとした根拠のあるものなのかどうかが重要で,それがなければ,全く異質のものを比べるだけの無意味な研究になってしまう危険性があります.例えば,テキストに例示されていた日本語の「ハ」と「ガ」とチェコ語の語順の問題は,かたや助詞という言語要素,かたや語の配列という点で異質なようにみえますが,それらを比べる軸が「既知」と「未知」であるところに,対照研究の価値があります.比べる軸を何におくかによって,研究の成否が決まってくるといえるでしょう.

今日,対照言語学の研究が多くなされ,おそらくそれなりの成果があげられていると思いますが,その厖大な研究のひとつひとつに目を通したわけではありませんので,関連図書をあげるのは,なかなか難しいところです.私の知る限りで,優れた本をあげるとするならば,

Chao, Yuen Ren. 1968. A grammar of spoken Chinese. University of California Press.

ぐらいでしょうか.これは,英語で書かれた中国語の文法書で,20世紀の記述言語学の最大の成果といってもいいすぎではありません.音韻から始まり,形態論,統語論に至るまでのすべてを網羅した本で,将来,中国語を研究しようとする人にとっては必読書の1つです.中国語訳も2種類出ていますが,やはり原著を読むべきでしょう.著者のYuen Ren Chao(趙元任)については,次回の授業で詳しい紹介がなされますので,お楽しみに.
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by jjhhori | 2004-07-21 16:25 | テキスト

文字論

文字もいろいろ考えてみると,多くの問題が浮かび上がってきて,興味が尽きないテーマです.逆説的ですが,文字を持たない言語を研究していると,文字の問題が余計に新鮮に感じられ,それゆえに,惹きつけてやまないものがあるといえます.

文字を発明したのが誰かは残念ながら分かりませんが,文字を作ろうとした人については,いろいろな伝記があり,その内容を窺い知ることができます(例えば,チェロキー語というアメリカ先住民の言語[イロコイ語族]にチェロキー文字を与えたシコウォイア[Sequoya,英語名George Guess 1770-1842]など).但し,ここでいうところの文字を作った人というのは,正確に言えば,文字をもたない言語を話す人が自分の言語を表わすために文字を与えたということであって,そういった人たちは,当然のことながら,文字の存在を知っていましたので,文字そのものを発明したとはいえません.

さて,上にあげたシコウォイアにしても,おそらく他の例にしても,共通していえるのは,まず,文字を作る出発点は象形文字であったところです.つまり,ひとつひとつの語に対して,その語が表わす事物の形を象った文字をあてていくという方法です.しかし,どの言語にしても語の数はとても多く,それらに別々の文字をあてていけば,たちまち文字の数も厖大になり,とても記憶できるものではなくなってしまいます.

文字を作った人は,その効率の悪さにある時気付き,もっと効率よく,自分たちの言語を表わす方法はないものかと考えを巡らし,そこで考え付いたのが語よりももっと数の限られた音節あるいは単音を取り出し,それらに文字をあてていくという方法です.つまり,ひとつひとつの語に文字をあてていく表語文字から,個々の音節あるいは単音に文字をあてていく表音文字へと転換することに思い至るわけで,その際に働く重要な原理が漢字の六書でいうところの仮借(かしゃ)です.仮借の原理の適用により,文字は,まず経済上の発展,すなわち,少ない数で多くのものを表わすという方向へ発展したといえます.

しかし,表音文字といえども,その究極の目的は,語を表わし,それを他の語と弁別するところにあります.例えば,テキストにもあげられたいたnightとknightは,表音文字という観点からいえば,その原理に適っていませんが,しかし,語を弁別するという観点からいえば,knightのkは,十分な機能を果たしているといえます.つまり,knightのkは,表音ではなく,表語の機能を果たす上で,重要な要素となっているわけです.このように,表音から表語へと機能上の発展をとげることにより,文字は一層固定化され,伝達の手段として十全な機能を具えるに至るといえるでしょう.尚,この際の表語は,文字の発展段階の初期の表語とはまた別の機能として考えるべきであることは言うまでもありません.

最後に関連・推薦図書を.テキストにあげられている河野六郎『文字論』(三省堂,1994年)は必読書ですので,文字について考えるにあたっては,まずそれを読まなくてはなりませんが,それに併せて,

河野六郎・西田龍雄『文字贔屓』(三省堂,1995年)

も読んでみるといいでしょう.これは,文字研究の碩学が文字について語り合った対談集です(一方がちょっとしゃべりすぎるという難点がありますが.苦笑).

また,漢字に絡む様々な問題を論じた,

橋本萬太郎・鈴木孝夫・山田尚男『漢字民族の決断 漢字の未来に向けて』(大修館書店,1987年)

もおすすめです(特に第一部の「十時間徹底鼎談」が面白いです).

文字創造については,

中野美代子『砂漠に埋もれた文字:パスパ文字のはなし』(ちくま学芸文庫,1994年[もと,塙書房,1971年])

をおすすめします.本書は,元朝時代に,パスパがどのように文字をつくったかを描いたものです.

それから,日本の文字研究の粋を集めたものとして,

河野六郎・千野栄一・西田龍雄(編著)『言語学大辞典 別巻 世界文字辞典』(三省堂,2001年)

をあげねばなりません.図版もたくさんあり,文字オタクにはたまらない1冊です.

尚,千野栄一『注文の多い言語学』(大修館書店,1986年)の中の「限りなく透明に近い“E青”<註:E偏に「青」の一文字>」と「もう一度文字について」も併せて読むといいでしょう.
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by jjhhori | 2004-07-15 15:29 | テキスト

言語類型論

言語類型論は,言語を記述する際の有力な武器となり得る点でとても魅力がありますが,これまたいろいろな難問が山積している分野の1つです.その理由は,いくつかあげられるでしょうが,まず,そのタイプに合致する自然言語が存在しないという問題があります.実際の自然言語は,複数のタイプにまたがった性質をもっているので,ある言語にあるタイプのラベルをつけたとしても,実際には,その程度が強いというだけのことで,多かれ少なかれ他のタイプの特徴も備えているのが普通です.こうなれば,どのタイプに属するかは程度の問題になってくるので,タイプというものの科学的な定義が一層困難になってしまいます.

例えば,孤立語の例としてよくあげられる中国語の場合を考えてみましょう.一般的に,孤立語とは,語が構造をもたないこと,それぞれの語が文の中で他との関係を一切示さずに孤立して存在することが特徴としてあげられています.しかし,前者は形態論に,一方の後者は統語論に関わる問題で,これらはおそらく分けて考えるべき問題でしょう.また,「語が構造をもたない」といっても,実際の中国語は,構造をもつ語(つまり合成語や派生語)が多く存在し,その際の手法は,膠着的なものです(例:「出版」<出版する>は,「出」と「版」という2つの要素[形態素]が膠着的に結びついたものです.cf. 「出了三版」<3版を出した>).つまり,孤立語といっても,実際の語形成の手法は,膠着的であるといえます.また,もし仮に語が構造をもたない言語があったとしたら,言語外現実に対応するひとつひとつの事象や事物に語をあてていかなくてはならず,結果的に語の数が厖大になってしまいます.実際の言語における語は,いくつかある要素(形態素)を組み合わせてできているわけで(例:「ビデオテープ」は「ビデオ」と「テープ」からなり,前者は「ビデオカメラ」,後者は「カセットテープ」という別の事物に対応する語を作る要素となり得る),そのような経済性があってこそ,言語外現実に対応して命名していくことができるといえます.

もう1つの根本的な問題は,タイプを設定する基準が一様ではないことがあげられます.その結果として,研究者によって設定するタイプの数が違ってきたり,その命名が区々になってしまうわけです.尚,研究者によっては,「孤立」「膠着」「屈折」に加えて,「抱合」というタイプを立てる人がいますが,「抱合」はいわゆる合成の一種であって,「孤立」「膠着」「屈折」などと同列に扱うものではありません.初心者向けのテキストで,「抱合語」なるものを立てる本が多くありますが,これは,全くの誤解に基づくものです.

言語類型論は,当然のことながら,多くの言語の知識を要求します.知っている言語の数が多くなればなるほど,その枠も広くなります.従って,言語類型論を考察するにあたって,最も参考になる本といえば,

亀井孝・河野六郎・千野栄一(編著)『言語学大辞典 第1~5巻 世界言語編 上・中・下1・下2・補遺』(三省堂,1988~93年)

をあげるしかないでしょう.ただこれだけをあげて終わりとすると,「ぎゃふん」と思う人もいるでしょうから,

Sapir, Edward. 1933. Language. In: David G. Mandelbaum (ed.), Selected writings of Edward Sapir in language, culture, and personality (University of California Press, 1949 [1985])

をあげておきましょう(これでも「ぎゃふん」でしょうか.笑).このサピア論文(もとは,『社会科学百科事典』の1項目)は,特に形態論的類型論に関して,語の形態的手法と語の統合度という2つの分類基準を立てているところが明解です(が,かなり難しい文章です).しかし,それでも中国語に関する扱いに問題を残しているように私には思えます.中国語という言語を類型論的にしっかり捉えることが孤立語とは何かという問いを明らかにする方途の1つであり,中国語は言語研究に実に多くの興味ある問題を提供する言語だと思います.

尚,テキストに出てきた能格構造については,千野栄一『注文の多い言語学』(大修館書店,1986年) に「特別料理エルガティーフ」というのがありますので,それを参照するといいでしょう.
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by jjhhori | 2004-07-02 14:05 | テキスト

日本語の構造

「日本語は世界の中で最も難しい」とか「日本語は主語を省略するからあいまいな言語だ」といった,極めて無責任な日本語論が横行しているのは,言語学を専攻する者にとって,なんとも嘆かわしいことです.言語というのは万人に共通のものですから,言語に関して云々するのは言語学者の特権ではなく,言語と向き合う様々な人が加わるべきだとは思います.しかし,その多くは,日本語とヨーロッパの言語の1つか2つしか知らない人によるものであって,私たちは,そういった無責任な日本語論に惑わされない目を養うことが必要です.

さて,日本語は,江戸時代の国学に始まり,その流れを継ぐ国語学において研究がなされ,その蓄積は膨大なものがあります.しかし,その対象とするのは国語であって,日本語ではありませんでした.つまり,他言語といえば,せいぜい漢文と対照するぐらいで,他の言語との構造上の類似や相違を明らかにし,そこから,言語一般に通ずるような理論を構築することに重きがおかれることはありませんでした.「国語学」が「日本の言語学」になり得ていないということは,特に構造主義の言語学が日本にもたらされた辺りからいわれていますが,今でもその状況は変わっていないと思います.尚,その一方で,「国語」ではなく,「日本語」を研究対象とする日本語学という分野があります.それは,国語学が培ってこなかった面を研究対象とする分野(のはず)ですが,しかし,アメリカの言語学で開発された理論を日本語に適用することに汲々としているのが現状で,そのような状況が続く限り,やはり「日本の言語学」に成長する可能性は望むべくもありません.

確かに,日本語が多くの研究者によって盛んに行なわれていますから,当然,日本語そのものを扱った論文や著書は,膨大な数のものがあります.そして,それらの中には,日本語の特徴や特質を論じているものも多くありますが,そのほとんどは,国語学の人の手による独りよがりな日本語論ですので,読む時間の無駄を思えば,読まない方がいいでしょう.

そうした中で,白眉のものとして,お薦めしたいのが

河野六郎「日本語の特質」,亀井孝・河野六郎・千野栄一編著『言語学大辞典 第2巻 世界言語編・中』(1989年,三省堂)

です.これは,同辞典の「日本語」という項目の中の一編で,同辞典に収められた様々な諸言語にみられる事象をもとに日本語を捉えたものです.その中には,「アルタイ型用言複合体」とか「単肢言語と両肢言語」といった独創的な着想も盛り込まれ,まさに「日本の言語学」の一歩となるものといえるでしょう.勿論,内容はかなり高度ですが,明解に書かれていますので,ある程度の知識をもって丹念に読んでいけば,十分理解できると思います.

ちなみに,テキストの著者は,この「日本語の特質」を紹介するにあたって,「日本語を研究しているヤツはバカだから読まないか,読んでもバカだから分からないかのどっちかだ」とおっしゃっていました(苦笑).
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by jjhhori | 2004-06-23 11:52 | テキスト

方言学

方言学というのも,これまた深くて広い分野です.つまり,膨大な研究の歴史があり,その一方で,多くの方言が存在するという状況があるだけでなく,更に,古語との関係を探るために文献学的な研究にも入っていかなくてはならないところに,「深くて広い」といわれる所以があるといえます.

しかし,私がみる限り,日本の方言研究の多くがアクセントの解明に費やされ,1つの方言を体系的に,しかも,音韻や文法,語彙などを包括的に記述した研究となるとあまりないように感じます.実際,方言研究といえば,アクセントの研究か,その土地固有の語彙を探すことであるかのような誤解すらあるぐらいで,そのような誤解が生じる原因は,これまでの方言研究が局所限定的であったからではないかと思います.

また,どの方言も等しく研究されているかといえば,どうもそのようなわけではなく,かなり詳しく記述されている方言から,ほとんど情報がない方言まで,研究の濃淡の度合いは様々です.例えば,静岡県内の方言をみてみると,特定の方言を包括的に記述した研究はほとんどなく,静岡市内に限っていえば,山間部はともかく,市街地の方言は全く記述されていないのが現状です.日本に多くの方言研究者がいながら,1つの方言の体系的で包括的な記述がほとんどないというのは,実に意外なことです.様々な方言的特徴が失われつつあるのと並行して共通語化が進行している現状をつぶさに記述するのが急務の課題であるといってよいでしょう.

さて,テキストにあげられていた本以外に何か追加しようと思っても,方言関係の本はとても多いので,なかなか選ぶのが難しいのですが,まず,授業で紹介された柳田國男の方言周圏論に関連する本として,

 松本修『全国アホ・バカ分布考:はるかなる言葉の旅路』(新潮文庫,1996年)

をあげておきましょう.この本の著者は,方言研究の専門家ではなく,大阪の朝日放送のディレクターです.本書は,「探偵!ナイトスクープ」という番組で,この「アホ・バカ」の全国分布が取り上げられたのをきっかけに,番組の後も独自の調査を行なって,「アホ・バカ」の方言語形が周圏分布をなしていることを明らかにした労作です.文章や構成にもあきさせない工夫が施されており,500頁を超える厚い本ですが,とても楽しく読めます.

テキストで,方言研究と歴史言語学の補完的な関係が説かれていますが,それを見事に示したのが

 河野六郎『朝鮮方言学試攷-「鋏」語考』(東都書籍,1945年)

です.朝鮮語の「はさみ」を表わす語は,文献学的に古く遡れる数少ない語の1つで,その方言形の地理的分布をみることにより,その語の歴史的な変遷を辿ったのが本書です.勿論,今では絶版ですので原本を直接みることはできませんが,同じものが『河野六郎著作集1』(平凡社,1979年)<図書館にあり>に収められていますし,その一部が「『鋏』語考」という題で,柴田武・加藤正信・徳川宗賢(編)『日本の言語学 第6巻 方言』(大修館書店,1978年)<図書館にあり>に入っています.ひとつひとつの手がかりから古い語形が明らかにされていく様は,推理小説を読んでいるような面白さがあります.その面白さは,一部を収めた後者でも十分味わえると思います(但し,旧字体で書かれているため,難しく感じられるかもしれません).また,後者には,1970年代までの方言研究における代表的な論文が収められていますので,それらもついでに読んでみては如何でしょうか(柳田國男の「蝸牛考」の一部も入っています).

方言を実際に調査してみたいという人は,

 小林隆・篠崎晃一(編)『ガイドブック方言研究』(ひつじ書房,2003年)

を読むといいでしょう.ちなみに,今年度の「言語学各論Ⅱ」(3・4年生対象)のテキストです(来年度も引き続き使う予定).
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by jjhhori | 2004-06-16 10:58 | テキスト

ユニバーサル

すべての言語に共通してみられる普遍的特徴を「ユニバーサル」とするならば,言語学の究極の目的は,このユニバーサルの探求にあるといってもいいでしょう.すなわち,ユニバーサルの問題は,言語とは何かという問いに直結してくるからです.

このユニバーサルに関しては,テキストにあげられているのとはまた違ったアプローチが出てくるなど,迷走を極めているのが現状です.例えば,今日の理論言語学では,いわゆる「普遍文法universal grammar」なるものを想定し,あらゆる言語事象をすべてそれで説明しようという研究が多くみられます.この「普遍文法」は,当然,テキストでいうところのユニバーサルとは全く異なる概念で,私にいわせれば,単なる理論上の虚構物にすぎません.そういうものがあると信じ,日本語や英語などニ三の言語を研究しただけで,それらに相通するからこれこれの事象は普遍文法だといって憚らない言語学者などは,「A君とB君は眼鏡をかけていて,ともに成績がいい.だから,眼鏡をかけている人はみんな頭がいい」という小学生(か,それ以下)と全く同じです.そのような議論には,裏づけが一切なく,また,演繹的に考えて,なぜそのような特徴が自然言語にとって必要なのかという視点が全くありません.何でも一般的な議論にもっていこうとするアメリカ流言語学の悪い影響を受けているのでしょうが,こういうのは,不毛な議論の何者でもありません.まずは,事実をしっかりと観察し,記述しないことには,いかなる仮説も砂上の楼閣になってしまいます.

ユニバーサルの問題を扱うには,どの言語にもあると思われる素材がどういうもので,それをどのように定義するかという問題も考えなくてはなりません.テキストに出ていた母音や子音などはその1つですが,それ以外にも,語,文などなど,一般的な用語でありながら,どの言語にも通用する定義が与えられていないものが実は多くあります.そのうち,語という単位を正面から捉え,その定義を試みた,

 宮岡伯人『語とは何か:エスキモー語から日本語をみる』(三省堂,2002年)

を今回の推薦図書としてあげておきましょう.

この本は,二重分節が発話から形態素へ,更に形態素から音素へという分析の方向であるのに対し,それぞれを統合する「結節」という方向があるのではないかと主張したものです.音声面における音と音の最小の結びつき(すなわち,「結節」)が「音節」であるとするならば,記号面における最小の結節が「語」であると考え,これまで等閑に付されてきた「語」の定義を見直したものです.

タイトルから分かるとおり,エスキモー語の例がふんだんに出てきますし,内容もかなり高度なので,1回読んだだけでは,とても理解できるものではありません.マルティネの本を十分理解してから,読み進めるといいでしょう.著者については,テキストの「言語調査」を参照(もっといえば,私の大学院の時の指導教官でした.あなおそろしや・・・).

ところで,三省堂から出た『言語学大辞典』の第4巻「世界言語編・下2」の最後に「編修後記」というのがあります(署名は,「編修委員会」となっていますが,実際の執筆者は,このテキストの著者).その末尾に,

「ここで示された事実は,一方では言語の多様性であり,他方では,そのような多様性にもかかわらず,なお,言語として1つの枠に入るという一定の共通性である」

という一文があります.その枠がすなわちユニバーサルかどうかはひとまずおくとして,それが何かを解明していくのが今後の言語研究の課題であるといえるでしょう.
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by jjhhori | 2004-06-08 17:14 | テキスト

社会言語学

社会言語学というのは,一見,とても面白そうに感じるのですが,実は,とても難しい分野です.一方では言語,他方では社会という,それぞれ混沌とした異質のものの間に相関関係を見出そうというわけですから,かなりの程度の困難を強いられるのは,当然といえば当然です.勿論,両者の間に相関関係があることは確実ですが,しかし,そのことを証明するために,言語がない社会を想定することが現実的には不可能ですので,決定的な証拠が得られないという弱点があるのも事実です.

そうはいっても,言語と社会の間に相関関係を想定することが全く不可能というわけではありません.とりわけ,ある話者が複数の言語を使い分けているような場合は,その使い分けの要因が社会にあることを実証するのは比較的容易です.いわゆるコード・スィッチングやピジン・クレオールの問題は,社会言語学が最も得意とする領域であるといえるでしょう(ピジン・クレオールの問題に関しては,テキストを参照してください).

それ以外にも,単一言語社会における話者間の様々な差異(地域差,年代差,階級差,職業による違いなど)も,その要因がはっきりとしている点において,やはり社会言語学的な処理が簡単にできるといえるでしょう.とりわけ,単なる語彙の使用における差異だけでなく,音声面や文法面において差異が現われる場合は,社会言語学的に興味ある問題を提供します.しかし,要因がはっきりしないそれ以外の場合となってくると,社会言語学は,まだ十分な理論的あるいは方法論的基盤をもっておらず,それゆえに,説得力のある根拠を見出すことが難しくなってきます.研究対象をラングだけでなく,パロールも含めようとするのが社会言語学の目的であるとするならば,パロールをどのように捉えるかがいまだ十分な理論的基盤をもっていないところに,社会言語学が蔵する自己矛盾があるといってもいいでしょう.その点において,社会言語学が方法論を開発することに懐疑的であるという著者の考えはもっともであると私は思います.

そうした行き詰まりからか,昨今では,「**語には,これこれの単語がある.ゆえに,この社会は**社会だ」といったような研究が横行していますが,これは,その話者の言語に対する無意識性と,言語が歴史的所産であることを全く無視した暴論であるといわざるを得ません.それは学問の領域ではない話であり,いくら真剣に検討したところで,科学としての言語学がそれに対して有効な措置を講じることはあり得ません.こういうことを真剣になって議論しようとする一部の「社会言語学者」は,具体的な言語の観察と記述を疎かにしているように私には思えます.たとえ社会言語学をやるにしても,基本は,具体的な言語の観察と記述であり,そのような基盤がないまま,社会言語学をやっても所詮素人の域を脱し得ません.早い話がフィールドワークを基礎としていない社会言語学というのはあり得ず,社会学がフィールドワークに基づいてデータを蒐集していることを考えれば,それを補助科学とする社会言語学がフィールドワークを必要とするのは当然のことです.昨今の社会言語学には,データの性質や扱いに関して,疑問を感じさせるものがとても多く,データの蒐集の仕方が杜撰な点は否めません.これは,データを重んずる社会言語学にとっては致命的なことです.

社会言語学に関して,信頼がおけ,かつ,方法論的基盤がしっかりした本となると,皆無に近いのですが,そういう状況の中にあって,以下の本は,豊富な用例とともに具体的な分析方法が示されると同時に,社会言語学の限界にも触れている点で,おすすめできると思います(しかし,一部,首を傾げたくなるような章もあり).

ロメイン,スザーン/土田滋・高橋留美(訳)『社会のなかの言語:現代社会言語学入門』(三省堂,1997年)
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by jjhhori | 2004-05-21 23:20 | テキスト

比較言語学

比較言語学は,印欧語比較言語学に限っていうならば,広くて深い世界です.「広い」というのは,研究するにあたって,英独仏露はいうに及ばず,ラテン語,ギリシア語,サンスクリット語,(更には最近研究がすすんでいる)ヒッタイト語といった古典語を修めなくてはならないということであり,「深い」というのは,19世紀から綿々と続いている研究をしっかりおさえなくてはいけないということです.そもそも研究書が読める程度になるまでの外国語を1つ習得することですら大変なのに,それを4つも5つも要求されるわけですから,まっとうに印欧語比較言語学をやろうというのは,まさに畢生の大業だと思います.

そもそも,言語学に限らず,どの学問分野に関しても,その学史,つまり,学問の歴史は知っておかなくてはなりません.今問題になっていることの背景には,やはり歴史的な流れがあるからです.言語学に限っていえば,言語学を志す人は当然言語学史をおさえておくべきで,その知識なしで,現在流行っていることをやっても意味は全くありません.そして,言語学の場合,その学史をおさえる上で重要なのが印欧語比較言語学です.従って,印欧語比較言語学の広くて深い世界にもぐりこまずとも,どのような研究がなされ,その時代背景はどうであったかぐらいはしっかり理解しておかなくてはなりません.

確かに印欧語比較言語学は,「敷居の高い」分野ですが,それを分かりやすく説いている入門書として,テキストにあげられている本に加えて,次の1冊をあげておきます.

高津春繁『比較言語学入門』(岩波文庫,1992年)

これは,もともと『比較言語学』という題で1950年に岩波全書の1つとして出されたものを,旧字体を新字体に,横組を縦組に改めたものです.文庫本だと,新字体だけれども縦組(いろいろな語例が出てくると読みにくい)という点が,一方,旧版だと,横組で読みやすいけれど旧字体という点がそれぞれ難点ですが,そのどちらを優先するかは,自分次第です.それはさておき,この本は,内容がとても明快で,まさに「入門」というに相応しいものです(ちなみに,私が学部生の頃は,文庫本がありませんでしたので,古書店で手に入れた旧版を読みました).

授業の時にほんの少し触れましたが,印欧語を話す民族がもともとどこに住み,どのような社会制度や文化習慣をもっていたかを探る方法を紹介したものとして,

風間喜代三『印欧語の故郷を探る』(岩波新書,1993年)

をあげておきます.これは,テキストの中で紹介されていた同じ著者による『言語学の誕生-比較言語学小史-』(岩波新書,1978年)の印欧語の先史研究に関する部分を補ったものといえます.

日本語の系統に関しては,

服部四郎『日本語の系統』(岩波文庫,1999年)

があります.1959年に出版された同名の本がもとになっていますが,特に,厳密な手法をもって琉球語との音韻対応を記述しているあたりは,今なお熟読する価値があります.しかし,文庫だからといって,電車の中で読み通せるようなものではなく,岩波書店もよくこんな難しい本を文庫にしたものだと思います(笑).

印欧語以外の比較言語学の入門書で,しかも日本語で読めるものというのは,残念ながらなさそうです(そんなのがあれば,私もほしい.笑).あえてあげるとすれば,漢字という直接的に音声を表わさない文字を用いている中国語の古い形を再構する方法を説いた,

平山久雄「中古漢語の音韻」,牛島徳次・香坂順一・藤堂明保(編)『中国文化叢書1:言語』(大修館書店,1967年)所収.

をすすめます.表音文字を使っている印欧語は,音=文字の関係があるという点で,直接的に音韻対応を探るのが容易だったわけですが,中国語はそのような状況に恵まれていませんので,そこにまず大きな障害があるといえます.この平山論文は,その障害をどのように克服し,隋の時代の中国語の音韻をどのように再構するかを説いたものです.但し,初級者向けとはありますが,内容はかなり高度です.

こんなようなところで,比較言語学の世界に少しはまってみては如何でしょうか.但し,抜け出せなくなっても知りません(笑).
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by jjhhori | 2004-05-18 17:53 | テキスト

音声学

冒頭に「言語の研究者がプロであるか,アマであるかのメルクマールが音声学の知識である」とありますが,これはまさにその通りです.音声学を習得せずして言語学をやろうというのは,図面の見方を知らずして大工さんになろうというのに等しいことです.

勿論,音声学は言語学徒だけでなく,言語教育に携わる人たち(日本語教育,国語教育,英語教育,その他外国語教育),言語療法士,果ては俳優を志す人にとっても必須の学科です.それ以外の人であっても,例えば,新しい外国語を勉強する際に,音声学の知識があれば,「ウをいいながらイといえ」などと訳の分からない説明にも,「あー,[y]の音か」と,たちどころに目ざすべき発音が分かるという利点があります.ちなみに,「音」は,言語学では「おん」と読み,「オト」とは区別します(細かいようですが,「おん」と読むか,「おと」と読むかで,その人がちゃんと言語学を勉強したかどうかがすぐにばれてしまいます).

音声学の入門書で,しかも良書となると,実に限られていて,テキストにあげられているものぐらいしか,私も思い浮かびません(残念ながら).最近では,音響工学,情報工学,医学などの助けをかりて,音声学がかなりの進歩を示しているのに,従来の知識を踏まえて,その最新の成果を盛り込んだ入門書がないのは不思議です.

そんな中でもあえて以下の2点を付け加えておきますので,興味がある人は手にとってみてください(いずれも入手可).

中川裕「フィールドワークのための音声学」,宮岡伯人編『言語人類学を学ぶ人のために』(1996年,世界思想社).

これは,フィールドワークの現場における音声観察の方法を平易に説いたものです.筆者の中川先生は,アフリカのコイサン諸語の記述研究に携わり,如何なる言語音も聞き分け,発音し分けるという伝説をもった,とても優れた音声学者です(勿論,ご存命です.念のため).そこにあげられている参考文献から更に音声学の世界へといくのもいいでしょう.尚,その本に収められている他の章も優れたものばかりで,似たようなタイトルの某書とは格段に違います(笑).

授業で,国際音声学協会所定の国際音声字母について簡単に説明しましたが,その際,これらの記号を使って,世界中のありとあらゆる言語音が記述できるわけではないといいました.そのため,国際音声字母で表記し得ない音を表わすために,国際音声字母以外の様々な記号を用いることがあります.また,いろいろな言語の記述を読んでいると,国際音声字母とは違った記号の使い方に出くわすことがあります.そういった様々な音声記号や,異なった用法を一覧にして示したのが,

プラム,ジェフリー・K/ラデュサー,ウィリアム・A,土田滋・福井玲・中川裕(訳)『世界音声記号辞典』(2003年,三省堂).

です.「へぇー,こんな記号(発音)があるんかい」という驚きを与える本であると同時に,「この音を表わすにはどんな記号を用いるんだべ」と思った時に役に立つ本です.音声学マニアにはたまらん1冊です.

それから,英語で書かれた良書を最後に1冊だけあげておきます.

Catford, John C. 2001. A practical introduction to phonetics (second edition). Oxford University Press.

これは,そのタイトル通りに,1つ1つの音が実際に自分で発音できるようになるための訓練の仕方を説いたものです.勿論,この本は,日本語で書かれた入門書を読んで,十分な知識を蓄えてから読むべきであって,これから入るのは,喩えていえば,スキーの初歩もできていない人がいきなりジャンプ台に行くようなものです(笑).

まずは,身の回りの人たちの発音を観察し,それが自分とどう違うかを考えてみましょう.
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by jjhhori | 2004-05-12 10:55 | テキスト