授業内容の補足・推薦図書の追加・言語学よもやま話など


by jjhhori

カテゴリ:紹介( 5 )

どうもご無沙汰です.この裏番組を始めて今年度で4年目になりますが,最近になって分かったのは,授業実施中は,更新がほとんど不可能なことです.もはや「裏番組」とはいえず,むしろ「特別番組」みたいな感じになってきていますが,ちょうどネタと時間がありましたので,久々に更新したいと思います.

2月のとある日,久々に本屋めぐりをし,今まで気になっていた本を一気に何冊か買い込んできました.今日紹介するのは,そのうちの1冊です.

この本が出ることは前々から知っていましたが,この著者(対談者)のお二人のうちのお一方は,私の恩師が「バカだ」とさんざん評していらっしゃった方であり,そういうのが頭にあったせいか,最初から買うつもりはありませんでした.しかし,本屋で立ち読みし始めたら,特に第1章の「回想の言語学者たち」にはまってしまい,立ち読みするのが面倒になって即お会計,その続きを近くの喫茶店で一気に読んでしまいました.

第1章に登場するのは,服部四郎,村山七郎,亀井孝,江実,井筒俊彦,高津春繁などなど,日本の言語学史において一時代を築いた言語学者であり,その業績や日本の言語学における位置づけ,更に,著作からは伺い知れない人となりや思想が語られ,実に興味深いものがあります.やはりそれは,このお二方が戦後に言語学を始め,それらの言語学者が中心的存在となって言語学を牽引していた,そういう時代の中を経験したからでしょう(ただ,記憶から語られているため,とんでもない間違いもいくつか含まれていますが).

三重のど田舎から「笈を負って」出てきた服部四郎,それを小馬鹿にしていた亀井孝,田中氏の留学のための推薦状を書いている最中に突然ショパンを弾きだす村山七郎などなど,そういった人たちを敬愛の情とそこからくる反発の情で捉えているところが本書の第一章の面白さかもしれません.勿論,そのようなエピソードだけでなく,アメリカ構造主義言語学が日本でどのように受け入れられ,更に,その限界がどのように感じられていたか,更に,本場のアメリカではどのようであったかなど,単に文献を読み解くだけでは感じ得ない,その時代の息吹のようなものが随所に現われています.同時代人として生きた著者がその時代の当事者たる言語学者から直接聞いたことばは,何をおいても興味深いものがあります.

そうした錚々たる言語学者のことばの中ではっとしたのが河野六郎によるソシュールの(弟子が作りあげた)『一般言語学講義』に対する「あんなに実用的な本はない」という批評です.

ところで,1988年(今から20年前です・・・)に出た三省堂の『言語学大辞典』の第1巻に「刊行の辞」というのがあります.これは,編著者3人が話し合って内容を決め,編著者を代表して河野六郎先生がお書きになったものですが,その中に,ソシュールが「常識的で分かりやすい,技術的な術語をいろいろ作り出した」とあります.その直後に例として,共時態と通時態や,ラングとパロールの区別など,具体的にあげられていますが,私は,最初それを読んだ時,「あれ?」と思うと同時に,「言われてみればそうだ」と妙に納得したのを覚えています.「あれ?」と思ったのは,当時の私にとっては,ソシュールはちんぷんかんぷん,それを補うために出された数々のソシュール概説書や理論書の類もちんぷんかんぷんだったからでしょう.まぁ,言語学を学び始めてまだ日の浅い当時の私にしてみれば当然ですけど,そうした経験がソシュールは難解だと思わせたのは間違いありません.

しかし,考えてみたら,その『一般言語学講義』は,ソシュールがジュネーブ大学で行なった講義を聴いた弟子たちが自分たちのノートをかき集めて作り上げたものであり,「あの時のあのことばにはこんな事実が隠されていた!」という一種の謎解きみたいなことをしても仕方ないのかもしれません.まぁ,確かに聞いて分かりにくい授業というのはありますし,表現の仕方の巧拙によって,真意が伝わらないということは十分あり得ますが(苦笑),「私が授業でいうことの真意はね,実はこういうことなんですよ」なんて思いながら,授業をする人など果たしているんでしょうか.まぁ,ソシュール先生と自分の授業を同列に扱うつもりは毛頭ありませんが,ソシュールは,案外,もっと明解なことばで語っていたのかもしれませんし,それを弟子たちが難しくしてしまった,あるいは,後の人がソシュールをあがめるあまり,「実はこうに違いない」と穿った(?)見方をしだしたからかもしれません.ちなみに,河野先生のそのことばを直接聞いた田中氏は,「(ソシュールを)よく分からない人だけがひねくりまわして無理に神秘的にしている」といっています.

さて,本書のタイトルは,「言語学が輝いていた時代」です.では,今はどうなのか.本書によれば,言語学は,「下火どころか,もうほとんどご臨終」だそうです.どうしてそのように思われるのか,その理由は,本書によれば,言語学がまず方法論ありきになってしまい,そこから対象をどんどん限定的にしてしまったからです.まぁ,そういわれると,私にも思い当たる節がありますので,ぐうの音も出ないのですが,英語至上主義,一方では,国語大好き主義(と,仮にいいましょう)がかまびすしい中,言語学が社会に対してどのように存在意義を訴えていくのかを問い直す時に来ているのかもしれません.

本の情報:鈴木孝夫・田中克彦『対論 言語学が輝いていた時代』(岩波書店,2008年)
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by jjhhori | 2008-02-24 16:12 | 紹介
今回は,ガラにもなく,絵本の話などを.「言語学とは全然関係ないじゃないか」とお思いの方,最後までお読みください.

中国語でいえば「天高気爽」という表現にぴったりなある日の午前,静岡アートギャラリーで開かれている「世界の絵本がやってきた:ブラティスラヴァ世界絵本原画展」を見てきました.

「ブラティスラヴァ世界絵本原画展」は,1967年に第1回目が行なわれ,2年ごとにスロヴァキアの首都ブラティスラヴァで開催されているものです.静岡アートギャラリーでは,2005年秋に開かれた第20回の同展から,各国の受賞作品と日本人による出品作が紹介されています.そちらの方もかなり充実した,素晴らしい展示でしたが,私の心をひいたのは,チェコの1920~30年代の絵本と原画の併設展でした.

その時代のチェコの代表的な絵本作家といえば,イジー・トゥルンカ(1912-1969),ヨゼフ・チャペック(1887-1945)などなど.ヨゼフ・チャペックは,かのカレル・チャペック(1890-1938)の兄で,画家あるいはグラフィック・デザイナー,劇作家などとして幅広く活躍しました.実は,私は,日本チャペック兄弟協会の会員なのですが,かといってチャペックに詳しいというわけではなく,日本チャペック兄弟協会は,私の言語学の恩師が設立した団体であるという理由で入会した,まぁ,不届きな会員です.

今回の併設展に出されたチェコの絵本とその原画の多くは,個人所蔵のもので,私は,「もしかしてもしかすると!」という期待を込めて,その展示に行きました.というのも,私の恩師は,蒐書家で有名な方で,そのコレクションは,ご自身のご専門のスラブ系の言語のみならず,東欧のあらゆる時代のあらゆるジャンルの本に亘り,かなりの数の稀覯書もお持ちでいらっしゃいました.そのうち,1920~30年代にヨゼフ・チャペックが装丁した古書でご自身で集められたものを『チャペックの本棚:ヨゼフ・チャペックの装丁デザイン』(ピエ・ブックス,2003年)として1冊にまとめられています.ちなみにその先生には,チェコの文学作品だけでなく,絵本の翻訳もいくつかあります.

まぁ,そういうようなわけで,もしかすると今回展示されているのは,その先生の蔵書かなと期待して行ったのですが,聞いたところによると,それらの蔵書本は,チェコの方のものだということで,私の期待は外れてしまいました(ただ,その時,学芸員の方がいらっしゃらなかったので,確かかどうかは分かりません.また,今回の展示は,全国を巡回しているものであり,必ずしも静岡アートギャラリーの企画によるものではないので,そういった細かいことまではご存じなかったのかもしれません).

しかし,展示そのものは,実に見事なもので,上にあげた著名な作家の作品だけでなく,日本の昔話をチェコ語に翻訳したものまでありました.1920年代前後にすでに日本の昔話がチェコに紹介されていたんですねぇ.驚きました.また,それぞれの作品の概要を載せた資料がもらえましたので,表紙をみながら,その絵本の中でどのような話が展開されているのかを知ることができました.

チェコだけでなく,東欧にも優れた絵本はたくさんあり,実際,かなりのものが翻訳されていて,選ぶのに迷うぐらいです.その中で,私の娘は,マレーク・ベロニカというハンガリーの作家の絵本,とりわけアンニパンニという女の子とブルンミという小熊を主人公にしたものがお気に入りのようで,アンニパンニシリーズの日本語版は,ほとんど揃えたくらいです(ただ,日本語訳がどうもこなれていないのが難点).また,同じ作家の作品で『ラチとらいおん』(福音館書店)というのも,やはりお気に入りの一冊のようです.その『ラチとらいおん』の訳者は,ハンガリー語学の碩学・徳永康元先生.徳永先生は,上に述べた私の恩師の師匠で,以前,この「裏番組」でも紹介したことがあります.『ラチとらいおん』が翻訳されたのは,1965年,今から40年前ですが,プリントを重ね,今日でも新刊で手に入るところをみると,相当人気のある作品なのでしょう.ちなみに,最近は,マレークさんの絵本のキャラクターをつけた様々なグッズが売られているようです.

と,まぁ,最後に,何とか言語学に結びつけたわけですが,それはさておき,絵本の奥深さを感じさせる,なかなか素晴らしい展示でしたので,是非ともお薦めしたいと思います(ちなみに,静岡アートギャラリーに行くと,その隣のホテル・センチュリー静岡のレストランなどの10%割引券がもらえます).絵本の世界に浸りつつ,自分のお気に入りの1冊を探すだけでなく,将来,子供ができた時に読んであげたい1冊を探したりと,いろいろと楽しめます.絵本というのは,様々な想像をかきたてるものだとつくづく感じました.

[情報]
 「世界の絵本がやってきた:ブラティスラヴァ世界絵本原画展」
 「(特別展示)チャペック兄弟,ラダ,トゥルンカ:チェコ絵本の黄金時代」
  場所:静岡アートギャラリー
  開催日:2006年11月26日(日)まで(午前10時~午後7時).
  入館料:一般1,000円,大高生800円
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by jjhhori | 2006-10-30 16:57 | 紹介

大島正二著『漢字伝来』

後期一発目の更新は,本の紹介です.今回紹介するのは,岩波新書の新刊,大島正二著『漢字伝来』,ここ最近出された岩波新書の中では,まさに出色の本です.

本書は,日本語が如何にして漢字を受け入れたかという,文字からみた文化交流史を概説したものです.私たちは,普段,漢字を当然のように使っていますが,少し考えてみると,漢字を使っていること自体,実は,とても不思議なことです.というのも,漢字は元来,中国語という日本語とは違った構造をもつ言語を表わすために創られたものであり,日本語を書き表わすには適さない文字だからです.すなわち,言語類型論的にいえば,中国語は,原則的に1つの語が1つの形態素からなり,いわば,語が構造をもたない「孤立語」であるのに対し,日本語は,語幹にさまざまな要素が随意的に付いて語が形成される「膠着語」であり,両者の間には構造的に大きな隔たりがあります.そうした構造的に大きく異なる言語を表わすために創られた文字を日本語に当て嵌めようとしたのですから,様々な工夫が必要だったことが容易に想像できるでしょう.本書は,漢字を日本語に如何に適用させていったかを説いたものであり,そこに本書の面白さがあるといえます.

そもそも,漢字は,1つの字が1つの形態素を表わし,それがそのまま語に対応しているわけですから,漢字は,語を表わす表語文字であり,しばしばいわれるように表意文字というのは正確ではありません.つまり,個々の漢字は,実質的な意味を担った単位を表わすわけですが,日本語には,実質的な意味をもたず,単に文法的な意味しかもたない(国文法でいうところの)助詞や助動詞(実際にはその多くは接尾辞)があり,実質的な意味を担った単位を表わす漢字でそれらを表わすには無理があります(尚,誤解を防ぐために付言しておくと,中国語にも助詞などに相当するものはあります).言い換えれば,中国語は,実質的な意味を担う単位が石ころのようにポツポツと配置されるので漢字で十分対応できるのですが,日本語に漢字を適用する際には,石ころはともかくとして,石ころ同士をつなぎ合わせる接着剤のような要素を漢字でどのように表わすのかが大きな問題としてあったということです.

また,中国の周辺でも多くの言語が漢字の影響を受け,その受容を試みていますが,例えば,日本語と言語構造が似ている朝鮮語は,日本語ほど漢字が浸透せず,ハングルという独自の文字を開発しました.一方,中国語と構造が似ているベトナム語においても漢字は浸透せず,やはりローマ字による正書法が確立されました.つまり,日本語において漢字が浸透したという事実は,漢字の影響を受けたそれらの言語の中において例外的であったということですが,それを可能にさせたのは,表語的な漢字から表音的な仮名を作り出したこと,それから,漢字を日本語の語にそのまま当て嵌める訓読みという方法を案出したことです.本書は,このような事実を踏まえ,先人が如何に工夫して漢字を取り入れたかを説いており,その過程を知るための格好の入門書といえるでしょう.また,補章として「日本漢字音と中国原音の関係を知るために」というのがあるのも,まさに痒いところに手が届く配慮だと思います.

著者の大島正二先生は,中国語学,とりわけ,昔の中国語の音韻の解明を図る中国音韻学の大家です.実は,私は,大学院の時に,大島先生の授業を1年間受けたことがありました.中国語学・文学専修の学部3・4年生を対象にした授業で,内容は,中国の言語学史を扱うものでした.義書(漢字の意味を説明する書)に始まり,字書(漢字字典.その代表は,許慎の『説文解字』),そして,韻書(発音辞典)の一部に話が及び,最後は,中古中国語の音韻体系の再構とその問題を解説され,かなり高度なものでした.ただ,その当時,大島先生は,学部長をなさっていたために,休講が多く,その点がとても残念でした. ちなみに,その授業の内容は,後に『中国言語学史 増訂版』(汲古書院,1998年),また,『辞書の発明―中国言語学史入門』(三省堂書店,1997年)として上梓されました.前者は,専門的な内容ですが,後者は,一般向けに書かれたもので,これもお薦めの一書です.

言語学専攻の学生であったにも拘わらず,わざわざ先生に頼み込んで授業を受けさせていただいたのは,内容が面白そうだということに加え,私の言語学の恩師が「大島さんはとてもいい人だから,授業は受けておいた方がいい」とお薦めになったからでもありました.私の恩師は,その世界では,毒舌をもって知られる方で,「あいつはバカだ・ダメだ」とおっしゃるのはよく聞いていましたが,「あの人はとてもいい人だ」とおっしゃるのは極めて稀(?)でしたので,そういうこともあって受講したわけです.今にして思えば,大島先生の授業に出たのは,とても幸運なことでした(しみじみ).

大島先生には,同じく岩波新書から『漢字と日本人―文化史をよみとく―』(2003年)というのがあり,こちらは,中国において漢字がどのように捉えられてきたのかを概説したもので,本書と併せて読むことをぜひとも薦めたいと思います.

尚,折りしも,万葉仮名の最古の木簡資料が出土したというニュースがありました.これまでの定説よりも20~30年ほど遡る,大化の改新(645年)辺りに,万葉仮名が確立したことを示す資料であり,漢字を表音文字的に用いたそのプロセスを解明する上で,極めて貴重な資料といえるでしょう.

本の情報:大島正二『漢字伝来』(岩波新書,2006年)
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by jjhhori | 2006-10-20 21:13 | 紹介
久々の更新です.ヒマがあれば,少しでも更新しようと思ってはいたのですが,ヒマがないのと,ネタもなかったので,しばらく放ったらかしにしてしまいました.いまさら更新しても,まぁ,見る人はいないんでしょうけどねぇ.授業が終わったものの,特にヒマというわけではないのですが,今回は,池上二良著『北方言語叢考』なる書を少しご紹介しようと思い立ちました.

さて,この本の著者の池上先生は,1920年長野生まれ,東京帝国大学文学部言語学科をご卒業,群馬大学助教授を経て,北海道大学文学部言語学講座の主任教授として,長年,ツングース諸語を中心としたアルタイ諸言語,アイヌ語,ギリヤーク語などの記述研究に携わってこられた方です.特にツングース語研究に対するご功績が認められ,先年,国際アルタイ会議メダル(Permanent International Altaic Conference Medal)が授与されました.このメダルは,世界的に認められたアルタイ学者に授与されるもので,日本では,服部四郎,村山七郎などまだごくわずかの方々しか受章していないそうです.

池上先生のご研究の特徴は,まず,フィールド重視であること,そして,厳密でかつ慎重である点があげられると思います.先生は,現在,80歳を過ぎていらっしゃいますが,数年前まで,ロシアや中国にたびたび調査にいらっしゃっていました.時折,「**語の*という音を実際に耳で確かめてみたい」とおっしゃっていたほど,実地調査に対し相当な執念をお持ちでした.考えてみれば,80歳ぐらいのご老人がロシアや中国の,しかも,環境条件の厳しいところに,単なる観光ではなく,調査研究にいらっしゃるわけですから,それだけでも驚きといわざるを得ません.

今回ご紹介する一書は,池上先生がこれまでご発表になったご論考や随筆を一つにまとめたもので,その内容は,北方諸言語一般に関するもの,各論として,アルタイ諸言語,アイヌ語,そして,日本語を扱ったものに大きく分けられます.

それらの各篇を読んで得られる読後感をいうならば,「こういうことが明らかになった/分かった」というすっきりとしたものではなく,何となく漠としたものだということを予め断っておかなくてはなりません.それは,著者が性急に結論を出すのではなく,あくまでも慎重に,また,厳密に様々な言語事象の記述を積み重ねることに徹しているからだと思います.「言語というものはこうだ」とか「**だから,**だ」と断定した口調で述べている本や論文がよくみられますが,そういったものは,よほどの自信家か,言語の怖さを知らない「偽者」かのどちらかでしょう.著者の慎重な姿勢は,安易な一般化を戒めるものであり,私などは,そこに「本物」を感じます.

著者の厳密な姿勢は,実際の調査でも同様だそうです.池上先生の調査に同行したある人の話によると,音声観察に曖昧なところがある場合には,「もう1回!もう1回!」と何度も話者に発音を繰り返してもらい,そして,それでも不確かな場合は,次の日にもう一度同じ単語を聞いて発音を確認するそうです.優れた音声学的観察能力と長年の経験がおありであっても,決して妥協を許さないということなのでしょう(妥協の産物程度の観察しかできない私は,大いに学ぶべきところです).従って,ご論考の一字一句にはそれだけの重みがあるといえます.

私自身は,池上先生に直接教わったことはありませんが,大学院にいた頃は,先生が風呂敷包みをお持ちになって,言語学研究室によくいらっしゃるのをお見かけしたことがありましたし,その後,研究会でも何度かお目にかかり,先生のご発表を伺ったり,私の発表に対してコメントを下さったりしたことがあります.直接ご指導を受けられた方は,とても厳しく怖い先生と評していますが,朴訥とした口調でお話になるお姿からは,そういう感じを受けたことはありませんでした.ただ,先生の前で迂闊なことはいえないという厳しさは常に感じます.

池上先生のご講義は,基本的に,口述筆記,すなわち,先生が講義ノートを読み上げられ,それを学生が書き取っていくというスタイルだったそうです.今では,こういう講義をする人はいないと思いますが,例えば,<裏話1>でご紹介した服部四郎先生も同じスタイルの講義をなさっていました.池上先生は,服部先生のお弟子ですので,そのスタイルを踏襲されたのでしょうが,池上先生が学生だった頃は,そのような講義が一般的だったのではないかと思います.今,こういう授業をやったら,授業アンケートで何を書かれるか分かったものではありません(苦笑).

今回,私がこの本を取り上げたのは,皆さんに「本物」に触れていただきたいと思ったからです.「本物」は,確かにとっつきにくいと思います.しかし,その行間には,言語の具体と格闘されてきた著者の長年のご経験とご労苦を感じ取ることができ,それこそまさに「本物」のかもし出す独特の香りではないかと思います.

本の情報:池上二良『北方言語叢考』(北海道大学図書刊行会,2004年)
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by jjhhori | 2005-03-04 17:53 | 紹介
9月某日,一通り本屋をまわって,そろそろ帰ろうかと思った矢先,平積みになっている新刊書の中に,徳永康元『ブダペスト日記』(新宿書房)を発見,中身や値段もみずにそのままレジにもっていきました.要するに衝動買いです.

徳永康元先生(1912~2003年)は,テキスト(といっても何だか懐かしい話になってしまいました)の著者の師匠で,ハンガリー語学・文学の研究者ですが,その専門の領域のみならず,かなりの蒐書家として令名を轟かせていた方です.ご自分が学長選挙の候補者になられていることもご存じなく,黒い風呂敷をもって神田の古本屋街を歩いておられたというエピソードが物語るほどに,古書と古本屋をこよなく愛されたそうです.先生の蒐書ぶりが如何にすごいかは,徳永先生による『ブダペストの古本屋』(恒文社,1982年),『ブダペスト回想』(同,1989年)をみれば,たちどころに分かります.

そもそも言語学の関係者には,古本屋好きが多いようです.私も国内外を問わず,旅先では地図を片手にまず古本屋を回りますし,そのような同好の士は,私の研究仲間の中にも数多くいます.専門書というのは,発行部数が少ないため,すぐさま品切れあるいは絶版になってしまうことが多く,必然的に古本屋を回ってそれらの文献を探さざるを得なくなります.本というのは,どうしても手元にもっておきたいもので,やむなくコピーをとるならともかく,図書館から借りて読んですますというのはどうも私自身は潔しとしません.

さて,本書には,山口昌男氏ややはり蒐書家として著名な東洋史学者の小林高四郎氏(1905~87年)などとの古書談義,ヨーロッパ旅行記や演劇・映画に関する随筆,ハンガリー留学時代(1939~42年)の思い出などが収められています.なかには,バルトークの祖国最後の演奏会を聴いたとか,ニジンスキーの娘と会って話をしたといったエピソードもちりばめられており,たとえハンガリーについてあまり知らなくても,本書を読めば,その時代と国にきっと思いを馳せることでしょう.

特に,本書の核は,先生の留学時代の日記抄です.先生は,国費留学生として1939年に日本を発ってハンガリーに留学をされていますが,本書には,その出発の時から長い船旅を経て,ハンガリーに至り,更に戦渦によってハンガリーを離れるまでの日記が収められています.日本を離れるにつれていやます望郷の念,婚約者(のちの祥子夫人)への純愛の情,ハンガリーに到着してまもなく受け取った父君の訃報,ハンガリーという異国の地での不安や焦燥感など,先生のお気持ちが飾りのない言葉で綴られ,ロマンチストとしての先生の一面がよく現われています.

当然のことながら,私は徳永先生に直接教わったことはありませんが,一度だけ,先生のご講演を伺ったことがあります(その時のテープがどこかにあるはず).その時すでに80歳におなりになっていましたが,髪が黒くてしかもふさふさしておられ,髪をみただけでは,真っ白なテキストの著者とどちらがお歳が上なのか分からないほどでした.ちなみに,徳永先生は,髪を染めているのかという質問に対し,「何本かに1本の割合で白髪を残すのは難しい」とおっしゃっていたそうです.その時の先生は,見た目だけでなく,動きも若々しくいらっしゃり,ポケットに両手を突っ込みながら,教壇の上をしきりに左右に歩いていらしたのをよく覚えています.

本書は,既刊の2冊とブダペスト3部作をなすものです.できれば,既刊2冊も併せて読むことをぜひおすすめします(但し,残念ながら,両者ともたしか絶版になっていると思います).更に,千野栄一『プラハの古本屋』(大修館書店),小林高四郎『古本随筆 漁書のすさび』(西田書店,これも絶版)も読むといいでしょう.これらの本を読んで,古本屋巡りに駆り立てられない人は,言語学をやる必要はありません(笑).
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by jjhhori | 2004-09-18 12:06 | 紹介