授業内容の補足・推薦図書の追加・言語学よもやま話など


by jjhhori

<   2004年 07月 ( 6 )   > この月の画像一覧

言語

言語学がどういう学問かを知るには,テキストにあげられている入門書3冊を読めばそれでおしまいなので,もうこれ以上書くことはありません.ここで著者がおっしゃっている真意について私なりに付言しますと,言語学が分かるようになるには,入門書の類をたくさん読んだりしても無駄で,自分の知らない言語の文法書を丁寧に読むことこそ言語学の理解につながるということです.これは,著者が常々おっしゃっていたことですし,もとをたどれば,河野六郎先生がおっしゃっていたことでもあります.つまり,日本語や英語しか知らないという硬直した言語観ではなく(しかし,日本語や英語の研究者にはこの手の連中が多い!),言語のみせる様々な事象に触れることによって,自身の言語観を膨らませるのが言語学を理解するための道といえます.戒めるべきは,日本語とヨーロッパの言語を少しかじって,「そもそも言語というのは」などといった安易な一般論を出すことです.

ところで,テキストにあげられている入門書のうち,ユアン・レン・チャオ『言語学入門-言語と記号システム-』については,私もよそで紹介しましたので,そちらをご覧ください.著者の趙元任(Yuen Ren Chao)も私が私淑する言語学者のひとりで,中国語学だけでなく,言語学でも大きな足跡をのこしたにも拘わらず,まとまった著作集というのは,これまであまり出版されていませんでした.その分野が言語学だけでなく,物理学や数学,更には音楽までに及ぶので,全集の類はまず出ないものとあきらめ,ならば自分で集めようと,趙元任の書いたものをこれまでせっせと集めていたのですが,この間,神田の某書店に行ったら,『趙元任全集』なるものを発見し,久々に衝動買いしてしまいました.出たのはまだ第1巻だけ,店員さんに聞けば,1年に1巻の割合で出していくとのこと.全部で20巻,つまり娘が成人する頃に全巻完結するのか・・・(苦笑).でも中国だからねぇ,私が生きている間に完結するんだろうか.

それでは,みなさん,夏休みのレポート,楽しみにしています.頑張ってください.このページの更新の頻度は落ちますが,気が向いたら,また何か書こうと思っています.「あ,そういえば」と思い出した時に,ぜひお立ち寄りください.
[PR]
by jjhhori | 2004-07-29 15:52 | テキスト

裏話7:河野六郎先生

河野六郎先生については,テキストの「文字論」や「言語類型論」でお名前がでてきましたし,更には,後ろの「日本の言語学者 河野六郎」でも詳しい紹介がなされています.私自身は,残念ながら,河野先生に直接教わったこともなければ,お目にかかったこともありませんが,私が直接教わったテキストの著者だけでなく,大学院の時の指導教官も河野先生に相当影響を受けたそうですし,河野先生の著作集などを通じて,ご研究に触れる機会はありましたので,かねてより私淑している言語学者のおひとりです.

河野先生(1912~98)のご研究の出発点は,中国音韻学.すでに旧制一高在学中に,スウェーデンの中国語学者Bernhard Karlgren(1889~1978)のEtude sur la phonologie chinoise(『中国音韻学研究』)を読んで,深い感銘を受けたというほどの秀才だったそうです.東京帝国大学に提出した卒業論文「玉篇に現れたる反切の音韻的研究」は一個の完全な作品として,後に刊行された『河野六郎著作集2 中国音韻学論文集』(平凡社,1979年)にそっくりそのまま収録されています.

この河野先生の卒業論文については,ひとつのアネクドートがあります.河野先生は,戦前に京城帝国大学で教鞭をとっておられましたが,終戦直後の混乱で,先生は,著書『朝鮮方言学試攷-鋏語考-』(1945年)とお子様のおしめと哺乳瓶だけをもって帰国船に乗り込まれ,それ以外の蔵書はほとんど朝鮮に残したまま帰国されたそうです.その蔵書の中には,先生の卒業論文が入っていたのですが,そのような事情のために長年行方不明になっていたところ,ある時,ある著名な韓国人研究者が先生の卒業論文を釜山の古書店で発見し,後に河野先生に返還されたために,著作集に再録することができたわけです.

この卒業論文は,梁の顧野王撰の字書『玉篇』で用いられている反切(漢字の表音方法の1つ)から六朝時代の中国語の音韻を明らかにしようというもので,卒業論文のレベルをはるかに超える優れた作品です.これを20代そこそこの人が書いたとは,とても信じられないぐらいで,実際,ある有名な中国音韻学の研究者は,この卒業論文を評して「そんな若い時にどうしてこんなすごいものが書けたのか驚きだ」とおっしゃっていました.

先生の研究領域は,中国音韻学だけでなく,朝鮮漢字音,中期朝鮮語の文法体系の記述,更に,文字論,言語類型論にまで及んでいます.勿論,先生のご業績のすべてを読んだわけではありませんが,先生の論文の多くに共通していえることは,論理の道筋がはっきりしていること,また,難しいことばを使って飾り立てるのではなく,極めて平易なことばしか用いないこと,しかし,それでいて,格調高い文体で統一されている点です.まさに論文の手本といってもいいでしょう.河野先生は,啓蒙的なものにはあまりご関心がなく,そのために,素人向けの文章は少ないのですが,例えば,テキストの「文字論」で紹介されていた「文字の本質」は,とても論旨が明解で読みやすく,しかし,それでいて,かなりのレベルを備えた見事な論文ですし,「轉注考」(河野六郎『文字論』三省堂に再録)は,先生の該博な知識と実証的な考察がうまく調和したすばらしい論文といえます.また,皆さんもよく利用している『言語学大辞典 第6巻 術語編』(三省堂)の「言語」「言語学」「言語類型論」「単肢言語と両肢言語」「文字論」といった項目は,署名はありませんが,明らかに河野先生がお書きになったものです.それから,『言語学大辞典 第1巻』の「刊行の辞」は,これまでの言語学の歴史を俯瞰し,そのあるべき姿を示した名文中の名文といっても過言ではありません(これは,毎年,3・4年生向けの授業の初回に読んでいます).

河野先生は,ご研究の対象の中国語,朝鮮語はいうにおよばず,英語,ラテン語,ギリシア語,サンスクリット語,アラビア語,ドイツ語,フランス語などなど多くの言語がおできになったそうです.ちなみに,千野栄一『外国語上達法』(岩波新書)に出てくる,暑い夏にはエスキモー語,冬にはスワヒリ語を勉強なさる「R先生」というのは,河野先生のことのようです.

河野先生が語学を習得される目的は,読み書きができるようになるためというよりも,ご自身の言語研究の視野を広げられることにあったようです.しかし,それでも凡人のレベルをはるかに超えていたようで,ある時,エスキモー語の研究をしている私の指導教官が河野先生にエスキモー語について教えてほしいといわれ,参上したら,次から次へと本質的な質問が飛んできて,相当冷や汗をかいたとおっしゃっていました.それぞれの言語のクセを見抜く力がおありだったことを表わしていると思います.それだからこそ,『言語学大辞典』(三省堂)という20世紀の日本の言語学における最大の成果が出来たのでしょう.先生は寄せられた原稿をひとつひとつ丹念にお読みになっていて(その話を後で聞いて,私はそれこそ冷や汗がどーっと出ました),その蓄積の成果が「日本語の特質」(『言語学大辞典 第2巻』所収)となって現われたのであり,その点においてこの「日本語の特質」は巷の特質論とは比べものにならないほど優れているといえます.ちなみに,『言語学大辞典』の編修作業中は,ずっと三省堂に詰めておられ,お昼は決まっておそばだったと,編修担当者の方に伺ったことがあります.

河野先生は,その足跡からもまさに不世出の言語学者であったことは明らかで,また,弟子をとても大事になさる優れた人格者でもあったそうです.東京教育大学(現・筑波大学)で教鞭をとっておられた頃,「将来教師となる人たちに『可』をつけるわけにはいかない」とおっしゃって,言語学概論では,「可」をつけなかったそうです.そうしてみれば,ばんばん「可」を出している私なんぞは,人格者のかけらもない朴念仁ということでしょうか.まぁ,教師もいろいろ,言語学概論もいろいろ,成績もいろいろです(笑).
[PR]
by jjhhori | 2004-07-21 17:30 | 裏話

対照言語学

言語学は,実用性に乏しい学問で,言語学で培われた知識があろうとなかろうと,直接的に私たちの生活に害が及ぶことはありません.しかし,それでも,語学教育(テキストの開発,辞書の作成など),言語の機械処理(機械翻訳,音声工学など)などなど,その実用性が発揮される分野もいくつかあります.ただ,現実的には,言語の機械処理は,言語学プロパーよりも,むしろ工学系の人の手による研究が中心で,言語学の人が自らすべて開発していることはまずなく,しかも他の分野の補助がどうしても必要になってきます.

その中で,対照言語学は,言語教育に資するという点で,言語学プロパーにおける実用性の高い分野の1つです.勿論,言語教育にとどまらず,言語類型論にも発展し得る,魅力的な分野です.しかし,2つの言語にある何を比べるかによって,その出来不出来が決まってきます.つまり,比べる軸がしっかりとした根拠のあるものなのかどうかが重要で,それがなければ,全く異質のものを比べるだけの無意味な研究になってしまう危険性があります.例えば,テキストに例示されていた日本語の「ハ」と「ガ」とチェコ語の語順の問題は,かたや助詞という言語要素,かたや語の配列という点で異質なようにみえますが,それらを比べる軸が「既知」と「未知」であるところに,対照研究の価値があります.比べる軸を何におくかによって,研究の成否が決まってくるといえるでしょう.

今日,対照言語学の研究が多くなされ,おそらくそれなりの成果があげられていると思いますが,その厖大な研究のひとつひとつに目を通したわけではありませんので,関連図書をあげるのは,なかなか難しいところです.私の知る限りで,優れた本をあげるとするならば,

Chao, Yuen Ren. 1968. A grammar of spoken Chinese. University of California Press.

ぐらいでしょうか.これは,英語で書かれた中国語の文法書で,20世紀の記述言語学の最大の成果といってもいいすぎではありません.音韻から始まり,形態論,統語論に至るまでのすべてを網羅した本で,将来,中国語を研究しようとする人にとっては必読書の1つです.中国語訳も2種類出ていますが,やはり原著を読むべきでしょう.著者のYuen Ren Chao(趙元任)については,次回の授業で詳しい紹介がなされますので,お楽しみに.
[PR]
by jjhhori | 2004-07-21 16:25 | テキスト

文字論

文字もいろいろ考えてみると,多くの問題が浮かび上がってきて,興味が尽きないテーマです.逆説的ですが,文字を持たない言語を研究していると,文字の問題が余計に新鮮に感じられ,それゆえに,惹きつけてやまないものがあるといえます.

文字を発明したのが誰かは残念ながら分かりませんが,文字を作ろうとした人については,いろいろな伝記があり,その内容を窺い知ることができます(例えば,チェロキー語というアメリカ先住民の言語[イロコイ語族]にチェロキー文字を与えたシコウォイア[Sequoya,英語名George Guess 1770-1842]など).但し,ここでいうところの文字を作った人というのは,正確に言えば,文字をもたない言語を話す人が自分の言語を表わすために文字を与えたということであって,そういった人たちは,当然のことながら,文字の存在を知っていましたので,文字そのものを発明したとはいえません.

さて,上にあげたシコウォイアにしても,おそらく他の例にしても,共通していえるのは,まず,文字を作る出発点は象形文字であったところです.つまり,ひとつひとつの語に対して,その語が表わす事物の形を象った文字をあてていくという方法です.しかし,どの言語にしても語の数はとても多く,それらに別々の文字をあてていけば,たちまち文字の数も厖大になり,とても記憶できるものではなくなってしまいます.

文字を作った人は,その効率の悪さにある時気付き,もっと効率よく,自分たちの言語を表わす方法はないものかと考えを巡らし,そこで考え付いたのが語よりももっと数の限られた音節あるいは単音を取り出し,それらに文字をあてていくという方法です.つまり,ひとつひとつの語に文字をあてていく表語文字から,個々の音節あるいは単音に文字をあてていく表音文字へと転換することに思い至るわけで,その際に働く重要な原理が漢字の六書でいうところの仮借(かしゃ)です.仮借の原理の適用により,文字は,まず経済上の発展,すなわち,少ない数で多くのものを表わすという方向へ発展したといえます.

しかし,表音文字といえども,その究極の目的は,語を表わし,それを他の語と弁別するところにあります.例えば,テキストにもあげられたいたnightとknightは,表音文字という観点からいえば,その原理に適っていませんが,しかし,語を弁別するという観点からいえば,knightのkは,十分な機能を果たしているといえます.つまり,knightのkは,表音ではなく,表語の機能を果たす上で,重要な要素となっているわけです.このように,表音から表語へと機能上の発展をとげることにより,文字は一層固定化され,伝達の手段として十全な機能を具えるに至るといえるでしょう.尚,この際の表語は,文字の発展段階の初期の表語とはまた別の機能として考えるべきであることは言うまでもありません.

最後に関連・推薦図書を.テキストにあげられている河野六郎『文字論』(三省堂,1994年)は必読書ですので,文字について考えるにあたっては,まずそれを読まなくてはなりませんが,それに併せて,

河野六郎・西田龍雄『文字贔屓』(三省堂,1995年)

も読んでみるといいでしょう.これは,文字研究の碩学が文字について語り合った対談集です(一方がちょっとしゃべりすぎるという難点がありますが.苦笑).

また,漢字に絡む様々な問題を論じた,

橋本萬太郎・鈴木孝夫・山田尚男『漢字民族の決断 漢字の未来に向けて』(大修館書店,1987年)

もおすすめです(特に第一部の「十時間徹底鼎談」が面白いです).

文字創造については,

中野美代子『砂漠に埋もれた文字:パスパ文字のはなし』(ちくま学芸文庫,1994年[もと,塙書房,1971年])

をおすすめします.本書は,元朝時代に,パスパがどのように文字をつくったかを描いたものです.

それから,日本の文字研究の粋を集めたものとして,

河野六郎・千野栄一・西田龍雄(編著)『言語学大辞典 別巻 世界文字辞典』(三省堂,2001年)

をあげねばなりません.図版もたくさんあり,文字オタクにはたまらない1冊です.

尚,千野栄一『注文の多い言語学』(大修館書店,1986年)の中の「限りなく透明に近い“E青”<註:E偏に「青」の一文字>」と「もう一度文字について」も併せて読むといいでしょう.
[PR]
by jjhhori | 2004-07-15 15:29 | テキスト
著者には,『外国語上達法』(岩波新書,1986年)という著書があります.みなさんの中にも読んだことがある人もいるでしょう.「必要なのはお金と時間」というのをみて,「なーんだ」と思った人もあるでしょうし,一方で「まず,これとこれはおさえておけ」とか「基本語彙のこれだけは覚えろ」といった具体的な話を読んで「よしやってみよう」という気になった人もいるでしょう.また,語学の教師に求められる条件についても1章が割かれていますので,特に英語や日本語の教師をめざす人には,是非とも読んでほしいと思います.

本書の冒頭に「私は語学が苦手である」とありますが,これは相当割り引いて受け止めるべきです.苦手どころか,語学の才能が相当おありだったことは,手がけられた言語の多さからあきらかであり,その本がかなりの説得力をもっているのも,語学が相当おできになったからです.

言語学をやっている人をみると,本当に語学の才能に恵まれた人と,語学の才能はおろか,使える言語は自分の母語だけという人の2つに分けることができると思います.そして,後者に属する人は,自分は言語学をやっていながら,語学ができないことを自慢げに(?)話すという共通の特徴があります(勿論,私は後者です.笑.いや,笑っている場合ではない).

たとえば,私の知人で,中国の内蒙古出身の人がいるのですが,その人は,モンゴル語は勿論,中国語もでき,しかも大学では日本語を専攻していたので,日本語も完璧.更に,来日してから英語を勉強して,1年かそこらで,ブルームフィールドの『言語』を原書で読み始めたかと思ったら,ロシア語を使ってシベリアの言語を調査し,その言語も習得してしまっているという,私から見たら神業のようなことを平気でやってのけています.

あるいは,ある国際シンポジウムで,ある高名なアメリカの言語学者が発表を英語で行ない,質疑応答の時に,日本人には日本語で,フランス語を話すアフリカの人にはフランス語で,更に,中国人には中国語で応じているのをみて,これまた驚いたことがあります.世の中には語学の才に恵まれた人がいるものです(ため息).

『外国語上達法』に話を戻しますと,この本の特徴は,言語学からみた外国語の上達法である点です.もっといえば,ここに書かれている外国語上達法は,言語調査の手法にも通ずるものがあり,フィールドワークを志す人にも某かの学ぶべき点があるといえます(著者がそこまで意図していたかどうかは分かりませんが).また,テキストの中で出てきたFSP理論などについても言及がありますので,そういう点でも読んでみる価値があるといえるでしょう.

尚,その本の中に,R先生とかS先生とか,イニシャルでお名前が書かれた方が登場しますが,これは姓ではなく,名の方のイニシャルです(但し,そうでない方もいらっしゃいます).そうなると,「東京の西の郊外に住むEさん」というのは,どなたのことか分かりますね.

どの程度までできればその外国語をものにしたといえるのかは人によって違いますが,まずは,目的をもつことが大事です.その目的が達成し得た時点で,とりあえずものにしたといえると思います.ただ漫然とやっていても,外国語は上達しない,それから,一度挫折した外国語は何度やっても挫折するというのは,私の経験からいえる外国語停滞的スパイラルの法則です(笑).
[PR]
by jjhhori | 2004-07-06 17:46 | 裏話

言語類型論

言語類型論は,言語を記述する際の有力な武器となり得る点でとても魅力がありますが,これまたいろいろな難問が山積している分野の1つです.その理由は,いくつかあげられるでしょうが,まず,そのタイプに合致する自然言語が存在しないという問題があります.実際の自然言語は,複数のタイプにまたがった性質をもっているので,ある言語にあるタイプのラベルをつけたとしても,実際には,その程度が強いというだけのことで,多かれ少なかれ他のタイプの特徴も備えているのが普通です.こうなれば,どのタイプに属するかは程度の問題になってくるので,タイプというものの科学的な定義が一層困難になってしまいます.

例えば,孤立語の例としてよくあげられる中国語の場合を考えてみましょう.一般的に,孤立語とは,語が構造をもたないこと,それぞれの語が文の中で他との関係を一切示さずに孤立して存在することが特徴としてあげられています.しかし,前者は形態論に,一方の後者は統語論に関わる問題で,これらはおそらく分けて考えるべき問題でしょう.また,「語が構造をもたない」といっても,実際の中国語は,構造をもつ語(つまり合成語や派生語)が多く存在し,その際の手法は,膠着的なものです(例:「出版」<出版する>は,「出」と「版」という2つの要素[形態素]が膠着的に結びついたものです.cf. 「出了三版」<3版を出した>).つまり,孤立語といっても,実際の語形成の手法は,膠着的であるといえます.また,もし仮に語が構造をもたない言語があったとしたら,言語外現実に対応するひとつひとつの事象や事物に語をあてていかなくてはならず,結果的に語の数が厖大になってしまいます.実際の言語における語は,いくつかある要素(形態素)を組み合わせてできているわけで(例:「ビデオテープ」は「ビデオ」と「テープ」からなり,前者は「ビデオカメラ」,後者は「カセットテープ」という別の事物に対応する語を作る要素となり得る),そのような経済性があってこそ,言語外現実に対応して命名していくことができるといえます.

もう1つの根本的な問題は,タイプを設定する基準が一様ではないことがあげられます.その結果として,研究者によって設定するタイプの数が違ってきたり,その命名が区々になってしまうわけです.尚,研究者によっては,「孤立」「膠着」「屈折」に加えて,「抱合」というタイプを立てる人がいますが,「抱合」はいわゆる合成の一種であって,「孤立」「膠着」「屈折」などと同列に扱うものではありません.初心者向けのテキストで,「抱合語」なるものを立てる本が多くありますが,これは,全くの誤解に基づくものです.

言語類型論は,当然のことながら,多くの言語の知識を要求します.知っている言語の数が多くなればなるほど,その枠も広くなります.従って,言語類型論を考察するにあたって,最も参考になる本といえば,

亀井孝・河野六郎・千野栄一(編著)『言語学大辞典 第1~5巻 世界言語編 上・中・下1・下2・補遺』(三省堂,1988~93年)

をあげるしかないでしょう.ただこれだけをあげて終わりとすると,「ぎゃふん」と思う人もいるでしょうから,

Sapir, Edward. 1933. Language. In: David G. Mandelbaum (ed.), Selected writings of Edward Sapir in language, culture, and personality (University of California Press, 1949 [1985])

をあげておきましょう(これでも「ぎゃふん」でしょうか.笑).このサピア論文(もとは,『社会科学百科事典』の1項目)は,特に形態論的類型論に関して,語の形態的手法と語の統合度という2つの分類基準を立てているところが明解です(が,かなり難しい文章です).しかし,それでも中国語に関する扱いに問題を残しているように私には思えます.中国語という言語を類型論的にしっかり捉えることが孤立語とは何かという問いを明らかにする方途の1つであり,中国語は言語研究に実に多くの興味ある問題を提供する言語だと思います.

尚,テキストに出てきた能格構造については,千野栄一『注文の多い言語学』(大修館書店,1986年) に「特別料理エルガティーフ」というのがありますので,それを参照するといいでしょう.
[PR]
by jjhhori | 2004-07-02 14:05 | テキスト