授業内容の補足・推薦図書の追加・言語学よもやま話など


by jjhhori

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言語学者は,人間の言語知識の2つの現実,すなわち,普遍性と多様性の間に作用する均衡的な緊張を称えるものである.しかし,言語の多様性は,将来も当然あるというわけではなく,多くの言語や文化が大きな危機に直面している.言語の多様性は,単に科学的な言語の探求にとどまらず,文化や芸術に属する様々な人間の活動との関係においても,人間の知的生活にとって重要である.

もし英語が唯一の言語であった場合,文法の基本原理について多くを学ぶことができようが,多様であり得る文法の性質については,これを推測し得るにすぎず,人間の言語能力の重要な点を失うことになろう.例えば,数の範疇に関わる対立についてみてみようと,英語だけを考察したところで,何も得るところはなく,数の対立(例:catとcats)が [±singular] と [±plural] のどちらで規定されるかは,ほとんど意味のない問題である.しかし,英語以外に,双数をもつ言語(例えば,ホピ語)もこの世にあったとしたら,その問題は,有意義なものとなる.このように,文法のどの領域をとってみても,言語学者の研究に対して言語の多様性が価値を有することは,明らかである.

世界の言語の多様性が貴重な資源であるという考えは,いうまでもなく,言語科学だけから導き出されるわけではない.言語は,文法以上の存在であり,広範にわたる人間の能力を包含し,それを使う民族の知的財を具現するものである.言語とその話者の知的産物は不可分のものであり,例えば,韻文,歌などのいくつかの言語芸術は,言語の形態的,音韻的,更には統語的特性に依存する.まさに芸術は,言語なしには存在し得ない.この依存関係がこれほど有機的ではない場合においても,知的伝統は,その言語とは切り離せないほどに,民族の言語民族誌の一部となっている.

こうした中にあって,それぞれの地域の言語とそれによって表わされる文化体系の喪失は,多様で興味ある知的財の取り返しのつかない喪失を意味する.

<以下,著者自身が1960年代に調査をしたオーストラリアのLardil語と,その補助言語であるDamin語の話が続く.Damin語は,ある儀式を経た成人男性が習得するもので,その地域に派遣されたキリスト教の布教団によってその儀式が禁止されてからは,Damin語の習得ができなくなり,1960年の時点で話せる人はごくわずかであった.いわゆる人工語の一つであるが,音韻面では,オーストラリアの諸言語にはみられない吸着音や世界の言語にはみられない吸気による無声側面音などがあり,語彙面では,かなり抽象化した概念を表わすなど,特異な特徴を示す(形態統語法は,Lardil語とかわるところがない)>.

Damin語は,失われてしまった事物の本質の例であり,また,言語的・文化的多様性がなくなってしまったら何が失われるかを示す例でもある.一方,言語と文化の多様性を保護することは,知的努力の伝統を永久保存することを保障するものではない.現存する伝統は変化を含意し,新しい伝統が発達するのは,まさにその地域の言語が活力をもっている場合である.

消え行く伝統を記録することはいいことであり,文化的財の完全な喪失をさけるには絶対的に必要であるが,より大きな目標は,人々の世界における多様性を守ることであろう.それこそ,多様で興味のある知的伝統が育つ環境であるからである.Damin語の例にかえってみるならば,その価値を認めるに十分な記録はあるにせよ,それがどのように変容したか,あるいは,一番重要なこととして,Lardil族の知的生活において,Damin語がどのような役割を果たしたかということに関しては,全く分からない.Lardil族が21世紀に向かってDamin語を習って使うことができるような文化的多様性を保障する安全な環境がなかったために,未来においても,その問いに対する答えを知ることはない.

Hale, Ken 1992. Language endangerment and the human value of linguistic diversity. Language 68 (1): 35-42.
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by jjhhori | 2005-06-19 21:25 | テキスト
アメリカ言語学会の機関誌 Language の1992年(第68巻1号)では,「危機言語」に関する特集を組み,Hale, Krauss, Watahomigie and Yamamoto, Craig, Jeanne, England がそれぞれの立場から危機言語の問題をどのように捉えるかを述べています(そのうち,クラウス論文に関しては,以下の記事参照).ここに紹介するのは,それらの見解に対するラディフォギッドの反論です.

言語の保持と維持は,異なった見解が可能であるように,多面的な問題である.ヘイルたちが述べている危機に瀕する言語の話者の態度は,一般的なものではなく,実際,アフリカには,それが当て嵌まらない国もある.確かに,多くのコミュニティにおいて,言語は神から与えられた神聖なるものと見做されているが,その一方で,言語を神聖ならざるものとする見方もある.例えば,南インドのニルギリ丘陵で話されるトダ語(ドラヴィダ語族)の話者たちは,自分たちの言語を記録する言語学者を歓迎し,若者の多くは,先祖を尊敬するが,その一方で,現代のインドの一部でありたいとも思っている.つまり,彼らは,その犠牲として自分たちの言語を放棄することも認めており,そうしないように彼らを説得するのは,理非をわきまえた言語学者のすることではない.

様々な言語,様々な文化は常に保存されなければならないというヘイルたちの説く仮説はどうであろうか.そのコミュニティにとって何が最善かを言語学者は知っていると決め込むのは,言語学者の家父長的温情主義的な干渉である.「動物種の絶滅が我々の世界を小さくするのと同様,言語の絶滅も我々の世界を小さくする」(Krauss 1992:8)というのは,感情に訴えるものであって,理性に訴えるものではない.危機言語の研究というのは,言語学的な理由がしっかりとしているが,しかし,我々は,政治的な配慮に基づく議論に慎重であるべきであり,自分たちが研究している言語の話者の懸念することに敏感であらねばならない.

更に,我々は,人間の社会は動物の種のようではないことにも注意する方がよい.様々な文化がいつも滅ぶ一方で,新しい文化も興っている.一般的には,世界はますます均質化に向かいつつあるというが,それは,新しく生じている差異を我々がみていないからそのように感じるのである.例えば,ブッシュマンのZhu|oasi 族と!Xoo 族は,互いに意思疎通が図れないほどに隔たった言語(但し,ともに同じコイサン語族に属する)を話すが,他の点においては極めて似通った振る舞いをする.これらの2つのグループは,アパラチア地方の炭鉱夫やアイオアの農家,ビバリーヒルズの法律家よりも文化的に異なっているのであろうか.

この移ろい行く世界において,言語学者の仕事は,所与の言語状況に関わる事実を説明することである.我々は,かつてウガンダにおける言語状況に関するデータを集め,ウガンダで話される主要な言語間の類似点や相互理解の程度を明らかにすることを試みた.我々は,政府が言語状況を評価できるようにそれらのデータをまとめたが,その状況を変えたり,維持するのに必要な犠牲や代価を決しようとはしなかった.ウガンダが直面する苦しみと言語の消失を我々が比較考量したとすれば,それは,でしゃばりであったであろう.

1991年の夏,ケニヤで数百人が話すクシ語族の1つで,ダハロ語という急速に失われつつある言語の調査をした時のことである.私は,言語協力者の1人に10代の息子がダハロ語を話すかどうかを尋ねてみたところ,その協力者は,「聞くことはできるが,話すことはできず,スワヒリ語しか話せない」と,微笑みながら答え,それを悔いている様子でもなかった.私は,その協力者が間違っているといえるのであろうか.

Ladefoged, Peter. 1992. Another view of endangered languages. Language 68 (4): 809-11.
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by jjhhori | 2005-06-07 18:19 | テキスト