授業内容の補足・推薦図書の追加・言語学よもやま話など


by jjhhori

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アイヌ語が危機に瀕する言語とされてほぼ100年近くがたつ.言語学者たちの研究は,アイヌの文化と言語,そしてアイヌ民族が消滅しかかっているという方針に基づいており,言語学者は,アイヌ語が消滅する前に,アイヌ語を保護し,記録・研究されなければならないと説き続けてきた.ところが,アイヌ語が消滅しかかっているとする100年前の見解は,強制的に押し付けられたもので,アイヌ語が多くの機能を果たし,多くの話者がアイヌ語を話していたことをみれば,あまりにも性急であったかもしれない.過去におけるアイヌに関する調査は,アイヌ族自身の観点を無視したものであり,こうした傾向はごく最近まで長い間続いていた.

北海道旧土人保護法が1899年に,また,旧土人教育規定が1901年に公布されると,同化的な教育の普及により,アイヌ語とアイヌ文化の崩壊が突如加速的に進んだ.これにより,アイヌ族は,子供たちにアイヌ語を伝えようとしなくなり,これが彼らの民族的独自性(ethnic identity)を放棄した過程の一部となった.北海道旧土人保護法によって,アイヌ族は「土人」,つまり劣った民族と扱われてきたために,彼らの中にはいまだにアイヌ族としての民族的独自性を否定する者が多い.更に,アイヌ語は価値がない,役に立たないともいわれたり,子供たちは学校や社会で差別を受けたりした.彼らがアイヌ語を話せないというのではなく,こうした状況がアイヌ語話者がほとんどいないという見解をもたらしたのである.

ここで着目すべきは,アイヌ語を復興しようという様々な努力がなされているという事実と,定義がないままに,言語学者などは,なぜアイヌ語が死滅したと結論付けたのかという問題である.「消滅する」「死につつある」「危機に瀕した」といったことばをアイヌ語に当て嵌めるのは不適切であり,また,アイヌ語そのものだけでなく,その存在すらも否定することになりかねない.

1970年代からアイヌ語教室が北海道の至る所で開かれ,1983年から萱野茂氏によるアイヌ語教室が始まり,1996年の時点で北海道で13(註:北海道ウタリ協会によれば,現在14教室)の教室が開かれている.この教室には,アイヌ族だけでなく,アイヌ以外の人々も参加しており,教室によっては,アイヌ語研究者やアイヌ語話者が協同して運営しているところもある.こうした教室では,挨拶や日常会話,口頭伝承,生活様式,文化事情などが教えられているが,二言語教育のシステムは,まだ確立されおらず,また,学校でのアイヌ語のカリキュラムもない.

1994年には,初めての一般向けテキストが発刊され,更には,視聴覚教材の開発,辞書も何点か出版されるなど,アイヌ族やアイヌ以外の人々がアイヌ語を学ぶことを楽しむ機会が増えたが,アイヌ語の方言の中には,そうした教材がないものもあり,その整備は急を要する.

北海道旧土人保護法により,日本社会へと強制的に同化させられたアイヌ族は,子供たちの前で極力アイヌ語を話さないように努め,その結果,アイヌ語は衰退していった.アイヌ語を話すことにより,彼らは子供の頃の悲惨な出来事を思い出すために,決して人前で話そうとはしなかった.過去の研究者は,アイヌ語が死滅しつつあると一方的に主張し,多くのアイヌ族がアイヌ語は役に立たないと認め,若い世代に母語を教えようとしなかったことにより,言語は衰退に傾き,そうしたことが今日のアイヌ語の状況の始まりとなったといえる.

若い世代の多くは,アイヌ語なしに育ってきているが,自分たちをアイヌとみる人の数は増えている.彼らは,自分たちが誰であるかを証明するために,何かを意識的に学び始めたが,なかでも,アイヌ語を習得することは,彼らにとってその問題を解く鍵の一つとなっている.アイヌ族としての民族的独自性と言語を復興しようという動機と労力は,互いに深く結びついている故に,アイヌ語を尊重することは意味のあることである.アイヌ語の母語話者(native speaker)の数は減っているものの,アイヌ語を学ぼうとする人の数は増えており,アイヌ族とその言語は,発達と伝承の過程にあるといえる.アイヌ語話者のための社会的環境が作られなければならないといえよう.

強調しておきたいのは,世界の文化的あるいは言語的多様性を維持することの目的の一つは,その重要性を主張し,一般に訴えることであるが,研究者たちは,用語を定義する際に是非とも慎重であってほしいということである.一方的な定義によって,その言語の話者が意図的に危機に瀕していると特徴付けられることもあり得るのである.その言語の機能的・歴史的・社会的変化も考慮に入れなくてはならない問題である.

アイヌ語を復興するのはやさしくはない.方言の中には,話者がすでにいなくなってしまったり,言語学的研究に協力する人がいないものもある.言語学的研究,財政援助,学校教育の一部としてアイヌ語を復活させる手段などを編み出すことは急務である.更に,重要な要素は,アイヌ語を学び,話し,子孫に伝えていこうとするアイヌ族の熱意である.また,快適な社会環境のためには,アイヌ語の機能と役割を回復し,アイヌ語を使うことを楽しむような条件を作り出さねばならない.それは,アイヌ語が死滅しつつあるからではなく,アイヌ語が先祖の英知と精神を備えた独特な言語として存在するからである.


Sawai, Harumi 〔澤井治美〕 1998. The present situation of the Ainu language. In: Kazuto Matsumura 〔松村一登〕 ed. Studies in endangered languages: Papers from the International Symposium on Endangered Languages, Tokyo, November 18-20, 1995: 177-89. ひつじ書房.
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by jjhhori | 2005-07-04 10:24