授業内容の補足・推薦図書の追加・言語学よもやま話など


by jjhhori

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再び辞書について

前回,危機言語という視点から辞書について書きましたが,それを書いた後,みなさんは,辞書といえば,どのようなものを浮かべるのだろうということをふと思いました.いやいや,辞書がどういうものかはみなさんもご存じのはずですが,私がいいたいのは,例えば,「辞書を引きなさい」といわれた時に手にとるのは,本の辞書と電子辞書のどちらかということです.

私が学生の頃(註:「学生」といっても,私は10年間学生をやりましたので,その時間の幅は広いのですが.笑),当然のことながら,電子辞書などというものはなく,あるのは,紙の辞書だけでした.しかも,外国語の授業が毎日のようにあり,複数の辞書を持ち歩く必要がありましたので,どの学生も大きなかばんに何冊も辞書を詰め込んでいたものです.今は,こういう学生をみることはなくなりましたが,その原因の一つとして,電子辞書の普及があげられると思います.

電子辞書がいつ頃から一般的に使われるようになったのか,詳しいことは知りませんが,静大の学生に限って言うならば,電子辞書を逸早く使い出したのは,私の記憶では,留学生だったと思います.その当時の留学生が使っていた電子辞書は,おそらく今ほど多機能なものではなく,せいぜい一種類の辞書しか入っていないもので,収録される辞書が増えるに連れて,日本人学生でも使用する人が増えてきたのでしょう.実際,日本人学生の間に電子辞書が普及し出したのは,留学生よりも遅かったと記憶しています.

電子辞書というのは,ページをあっちこっちめくったりする必要もなく,たちどころに調べたい語が見つかりますので,時間を大幅に節約できる点で確かに便利です.実際,私も電車の中で本を読んでいる時に,どうしても調べたい語がある場合は,電子辞書を取り出して調べていますが,こういうことは,紙の辞書ならまず無理でしょう(いや,無理ではないけど,ちょっと面倒くさい).また,海外に行く時は,以前は無理をしてでも紙の辞書を持ち歩いていましたが,今なら,電子辞書がありますから,スーツケースの余った空間に別のものが詰め込めるという利点もあります.このように,時間や場所の節約になりますので,電子辞書というのは,まさに画期的な発明品です.また,電子辞書の普及により,ちょっとしたことでも,すぐ辞書で確かめるという習慣が学生の間にできあがったのも,電子辞書のおかげといっていいかもしれません.おそらく,私が赴任した頃に比べて,静大の学生が辞書で調べる頻度は上がっていると思います.

しかし,やはり,紙の辞書をずっと使ってきた,私のような古い人間には,この電子辞書なる代物,どうも今ひとつ馴染めません.何となく調べたという気がせず,その調べた語の意味がなかなか頭に入らないんですね(年のせいかもしれませんが.苦笑).それは,おそらく,小さい画面であの独特の字体をみることが苦痛だからなのでしょう.つまり,「辞書を引く」といっても,実際は,辞書を読んでいるわけであり,その読むという行為にとって,あの独特の文字がびっちりとつまった小さい画面というのは,適しません.これは,辞書をどのようなものと捉えているかという問題と絡んでくると思うのですが,私の場合,辞書は語を調べるための道具であるだけでなく,読む対象としてあるからこそ,電子辞書に対して抵抗感があるのではないかと思います.目標とする語の意味を調べている間に,ちょっとその隣の語も読んでみるというのは,実に楽しい作業であり,それがことばのもつ深遠な世界に入り込むひとつのきっかけとなると思うのですが,電子辞書では,そうしたきっかけは得られません.私の場合,じっくりと読書をする,あるいは,ものを書く際に使うのは,電子辞書ではなく,依然として紙の辞書の方です.

私が電子辞書に対する抵抗感を抱くもう一つの理由は,使っている辞書の新しい版が出た時などに即応できないという点です.勿論,紙の辞書でも,新しい版が出たら,買い換えなくてはならないわけですが,電子辞書の場合,収録されている複数の辞書のうち,どれかに新しい版が出た場合,その本体をそっくりまた買い換えなくてはなりません.まぁ,「辞書なんて,新しかろうが古かろうが,関係ない.私は,一生この辞書を使います」などという人には,何十年来の辞書をそのまま使えばいいわけですから,電子辞書が壊れるまで使い続ければいいでしょう.でも,やはり,ことばを生業とする者としては,自分の使っている辞書の新版が出たとあれば,どの部分が新しくなり,どこが書き加えられたのか,この目で確かめてみたいと思うものです.そういったことがすぐにできないという点で,電子辞書はやはり不便なものです.電子辞書が急速に普及しつつある今,紙の辞書がそれに反比例するように減少していくのではないかというのが目下のところ私の恐れるところです.

私が学生の頃,ある英語の先生は,「辞書を引くのが億劫になりだしたら,じいさん,ばあさんの始まりだ!」とよくおっしゃって,私たちの怠惰な態度をよく戒めていましたが,電子辞書を引くことすら面倒に感じるようになったら,それこそお終いということになるんでしょうね.普段,電子辞書を使っている人も,辞書のもつ(便利さではなく)面白さを十分に味わうために,偶には紙の辞書を引くことを強く奨めます.

追:しかし,そうはいっても,この前に書いた例のハイダ語辞書は,是非とも電子辞書で出してほしいものです(笑).
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by jjhhori | 2006-06-29 17:46 | ことば

危機言語と辞書

今回のテキストは,主に辞書作りの話でしたので,それに関連して,いわゆる「危機言語」の観点から辞書の問題について述べてみたいと思います.

辞書というのは,一般的に,その使う人の用途に応じて,様々なものがあります.例えば,学習者用の辞典であれば,段階に応じて,初級者向け,上級者向けというのがあり,初級者向けであれば,収録語数を絞って,個々の語の意味や用法を詳しく書くことが要求され,逆に,上級者向けであれば,語の意味や用法は必要最低限の記述に留め,収録語数をできるだけ増やすなどといった工夫が必要です.しかし,学習用の辞典で,複数のものが出版され,選択の幅が広いというのは,話者が多く(つまり,それだけ需要が高い),研究者の数も多い言語において可能であり,話者が少ない上に研究者の数が少ない言語においては,そういうことは望むべくもなく,語釈も不完全,語彙数も少ないという,辞書として役に立つのかどうか分からないようなもので満足せざるを得ません.

私が研究しているハイダ語でも,1970年代に作られた,2000語程度の簡単な辞書しかありませんでした.辞書といっても,ハイダ語の見出しに,それに相当する英語の意味が書かれ,動詞や名詞のそれぞれの異形態が簡単に記されているといった程度のものです.その後もその辞書を改修訂し,新たな版を出すということはなく,管見では,ほとんど利用されることもありませんでした.

ところが,そうした中,その欠を補うかの如く,2千ページ以上に及ぶハイダ語辞典(全2巻)が昨年出版されました.どれぐらいの分量かといえば,タウンページ2冊分ぐらいの厚さ.ハイダ語を30年以上にわたって研究してきた言語学者が個人で作り上げたというものです.語釈も詳しく,また,いろいろな用例が載せられ,よくも一人でこれだけのものを作ったと感心せざるを得ない辞書です.いわば,研究社の『英和大辞典』を一人で作ったといってもいいぐらいのものといえば,この辞書のすごさが分かるでしょう.

今まで満足のいく辞書がなかった言語に本格的な辞書ができたというのは,普通であれば,とても喜ばしい出来事です.特に,その言語の話者が少数の高齢者に限られているような場合は,尚更のことです.しかし,残念ながら,ハイダの人たちのこの辞書に対する評価は,極めて冷淡なものでした.実際,ある人は,パラッとめくっただけで,「ダメだ,こりゃ」といってすぐさま辞書を閉じてしまいましたし,ハイダ語の集中講座を取り仕切っている私の友人などは,「自分の知識をひけらかすために,こんなものを作りやがって」などと散々こき下ろしていたぐらいでした.それは,ハイダの人々とその言語学者との間の長年にわたる確執を思えば,十分納得できるものですが,本来,最も必要とする人たちにそっぽを向かれてしまったわけですから,長年かけてつくったこの辞書は,一体何の意味があったのかと思わざるを得ません.

彼らがこうした感想を抱くのは,そうした感情的な理由ばかりではなく,それがuser-friendlyに出来ていないところにも由来すると思います.例えば,見出しの配列をみてみると,ローマ字で表記(これについては後述)されたハイダ語の項目がabc順ではなく,その項目の語頭(厳密には形態素の最初)の音の調音点(発音する場所)で並べられている点がまず大きな障害となっています.つまり,一番最初の見出しが「a」で始まっているのではなく,調音点が前の方である「p」(両唇音)で始まっているわけです.要するに,音声学の知識がないと引けない配列になっているということです.しかも,ハイダ語は,スワヒリ語に劣らないほど,語構造が複雑ですので,スワヒリ語と同様,問題となる語を形態素に分析した上でないと,この辞書は使えません.実際,私も仕事柄(?)使うことがありますが,目的とする語がなかなか見つからず,本当にイライラさせられます. ハイダ語に関する言語学的な知識を持っている(んでしょうな.笑)私ですら,こうなのですから,ましてや,ハイダ語の話者であるじいさんやばあさんたちがこの辞書を使う苦労は,並大抵のものではありません.そもそも,じいさんやばあさんは,音声学の知識などありませんから,どうして最初に「p」で始まる語が置かれているのかその理由がさっぱり分かっていませんし,お年寄りは短気ですから,2千ページもある辞書を一頁ずつ繰って,目的とする語を探そうなどという気持ちは全くありません.「だめだ,こりゃ」というその言葉に,この辞書に対する彼らの感情のすべてが込められているといってもいいでしょう.

この辞書が彼らを遠ざけてしまった第二の理由は,そこで使われている正書法です.ハイダ語はもともと文字がありませんでしたが,上述の1970年代に作られた辞書で用いられた正書法をもとにいろいろな方言の正書法が作られ,その後,学校教育や成人対象のハイダ語集中講座などで使われてきました.しかし,昨年出たその辞書が用いている正書法は,その正書法とは文字の使い方が異なるもので,これがまた,彼らの感情を逆撫でしたわけです.例えば,有声(厳密には無声無気)口蓋垂閉鎖音を,それまでは「g」(下線付きのg)で表わしていたのですが,新しい辞書では「r」という文字を用い,また,これまで無声口蓋垂摩擦音に対して「x」(下線付きのx)を当てていたものを単に「x」で表わし,従来「x」で表わしていた無声軟口蓋摩擦音に「c」を当てるというようなことをやっています.この説明を読んだだけではすぐには理解できないと思いますが,こういう複雑な文字の使い方をしているために,多くの人の反発を買ってしまったのです.正書法に関しては,また別の機会に述べたいと思いますが,いずれにしても,正書法を考える際には,言語学的な正確さだけでなく,彼らが慣れ親しんでいる英語の正書法の慣用もある程度考慮に入れなければならないと思います.それ以外にも,2巻セットで4万円弱というのも,大きな問題です.

この事例は,結局,辞書というのは,どういう利用者を想定しているのか,そして,それに対してどのような工夫を施しているのかが使い手に伝わらなければ,いくら大きくて立派な辞書でも何の役にも立たないということを表わしています.そういった視点がない辞書というのは,それこそ言語学者の自己満足と批判されても仕方がなく,特に危機に瀕した言語の場合は,今必要とする辞書とはどういうものかということを話者や言語教育関係者と模索しつつ,作り上げていかなくてはならないと思います.ハイダ語において必要とされているのは,初級の学習者にとって使いやすく,学習の発展を助けるものですが,言うほどには簡単な作業ではなく,私もまだ暗中模索の段階です.尚,ハイダ語ではなく,韓国語(朝鮮語)の辞書ですが,菅野裕臣・他(編)『コスモス朝和辞典』(白水社,1991年[第2版])は,そういった工夫がされている辞書のひとつとしてお薦めしたいと思います.
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by jjhhori | 2006-06-22 23:03 | テキスト
今回もこれまた,私が習った先生がお書きになった文章で,迂闊なことを書くと,あれやこれやクレームがくるといけませんので,当たり障りのない話を書くことにします.今回のテキストは,音声学に関わるところもありましたので,音声学ネタで書きます.

日本語の閉鎖音には,ご存じの通り,無声音と有声音の対立があります.例えば,[k] に対して [g],[t] に対して [d] など,いずれも語の意味の区別に関与するわけですから,それぞれ別個の音素に該当します(この辺は,言語学概論の復習ですね).この違いを仮名の上では,濁点「゛」を使って表わすのもご存じの通りです.例えば,「か」に対して「が」,「た」に対して「だ」などですが,しかし,摩擦音になると,無声音と有声音の対応の仕方が閉鎖音のそれの場合と異なってきます.例えば,「さ」に対しては「ざ」ですが,実際の音声をみてみると,「さ」の子音は [s] であるのに対して「ざ」の子音は [z] だけでなく [dz](破擦音といいます)であることもあります.まぁ,[z] と [dz] の違いは,日本語では音声的な違いであって,音素のそれではありませんので,音素レベルで解釈すれば,「さ」と「ざ」も /s/ と /z/ の違い,つまり,無声と有声の対立と見做すこともできるでしょう.

では,「は」はどうでしょうか.「は」の子音は,ごく大雑把に書けば,音声的には [h] ですが,それに濁点が付いた「ば」の子音は,音声的には [b] であり,[h] の有声音ではありません.[b] に対する無声音は [p] ですが,仮名では「ぱ」と書くように,ハ行では,清音と濁音の組が無声・有声という点だけでなく,調音点(口の中の発音する場所)や調音方法(発音の仕方)まで違っていますので,他の行と比べて不規則になっています.なぜこのような複雑なことになっているのかというその理由は,日本語のハ行の子音がかつては [p] であったことと関係があるのですが,ここでは,その詳細については触れません.

ところで,私の2歳7ヶ月になる娘は,2歳3ヶ月ぐらいから平仮名を読み始め,今では,例えば,「ぬ」と「め」,「さ」と「き」など形が似ているものを読み違えることが時々あるものの,大体の平仮名は読めるようになりました.念のために書いておきますと,英才教育とかお受験対策とかそういうつもりは毛頭なく,絵本が一人で勝手に読めるようにするために,試しに教えたところ,次から次へと覚えるので,こちらも面白がって覚えさせたというだけのことです.

その娘が覚えるのにまずひっかかったのがこの濁点つきの平仮名でした.どうやっても濁点を抜かして読んでしまうんです.そこで,ある時,文字を見せずに,「『か』に“てんてん”は『が』.じゃ『こ』に“てんてん”は?」と教えているうちに,ガ行・ザ行・ダ行の読み方をたちどころに覚えてしまいました.まぁ,彼女の小さい頭の中で無声音と有声音の対立がちゃんと認識されていたんですね.これにまず驚きましたが,私が更に驚いたのは,「『は』に“てんてん”は?」と聞いた時です.文字を習った人なら「ば」と答えるところでしょうが,それに対して彼女は,ためらうことなく「あ」と答えたのです.普通の親なら「『ば』でしょ!『ば』!ちゃんと覚えなさい!キーッ!」となるところですが,言語学をやっている異常な(?)親である私は,この答えを聞いた瞬間,思わずニヤッと笑ってしまいました(客観的にみれば,やっぱり怪しい).

上に述べたように,日本語のさまたげ音(閉鎖音,摩擦音,破擦音)系列は,無声と有声の対立を示します(上の /k/:/g/, /s/:/z/ など).この対立がないのは,/n/, /m/, /j/(ヤ行の子音),/r/, /w/ ですが,妨げ音の中では,/h/ だけがこれに対する有声音素がありません.これに対し,服部四郎という言語学者(本裏番組の2004年5月を参照)は,ア行を /’a, ’i, ’u, ’e, ’o/ のように,母音始まりでありながらも子音音素があると解釈し,この /’/ を無声喉頭音素 /h/ に対立する有声喉頭音素と見做すという説を述べています.つまり,
  /ka, ki, ku, ke, ko/ : /ga, gi, gu, ge, go/
が無声と有声で対立するように,
  /ha, hi, hu, he, ho/ : /’a, ’i, ’u, ’e, ’o/
も同様に,無声と有声の対立であるとする解釈です.この /’/ という音素は,一見(一聞)してないものが実はあるものと仮定して設定されたものですが,ア行もこのように解釈することによって,日本語の音節構造(厳密には音節ではありませんが)は /CV/ であると一般化することができます.娘が「『は』の“てんてん”は?」と聞かれて,「あ」と答えた瞬間,私は,服部先生のこの説を思い出し,それでニヤッと笑ったわけです(ちなみに,ハ行のハ以外も同様に,ア行で答えていました).

私たちは,すでに仮名の読み方を知っていますから,「は」に対して「あ」という発想はまずないのですが,まだ文字に毒されていない娘は,音声的な類推から「あ」と答えたのでしょう(その時,文字を見せずに教えたのもひとつの要因かもしれません).その有声喉頭音素というのは,確かに日本語の音節構造を説明するための理論的な虚構物ですが,しかし,無意識のうちには,実は,無声の喉頭音素 /h/ に対するものなのかもしれないと,娘の反応をみながら思いました.

結局,娘には,このまま間違った読み方を教えるわけにもいかず,「『ば』だよ!『ば』!」と教え込んでしまったので,今となっては,ちゃんと「ば」と読めるようになり,それはそれで,嬉しいような悲しいような・・・.ちなみに,言語学者の子供というのは,えてして,親の実験台になる傾向があります.私もできる限り,娘にいろいろな発音を仕込んでおこうと,あの手この手を使っていますが,娘で失敗したら,孫で試そうと,今から遠い将来のことも考えています(笑).
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by jjhhori | 2006-06-14 10:38 | ことば

「抱合」について

今回もテキストについてあれこれ書くと,いろいろと差し障りがありますので,テキストの内容については,あまり触れません(どうか事情を察してください!).幸い,授業において,抱合と複統合の違いに関する質問が出ましたので,今回は,それについて書きます.相当難しいですが,最後まで読み通してください.

まず,「抱合」というのは,自立的に現われ得る名詞と同じく自立的に現われ得る動詞が合体し,ひとつの動詞として機能する語を形成することをいいます.言い換えれば,名詞と動詞からなる合成動詞の一種であり,動詞が名詞をいわば抱きかかえるので,「名詞抱合」といいます.例えば,イロッホ語(Iroh)において “ska”「鹿」という名詞と“koros”「殺す」という動詞があった場合,それらを合成させた表現,すなわち,

  was-ska+koros-ta 「私が鹿を殺した」
    (was-:1人称単数主語,-ta:過去)

これが名詞抱合の例といえます(ハイフンは接辞の境界,+は合成を表わします).この場合,was-という1人称単数主語を表わす接頭辞と-taという過去を表わす接尾辞がその名詞と動詞が合わさっている形式(ska+koros)をいわば挟み込むようについていることで,この例は,ひとつの語であることが分かります.

これに対し,“ska”「鹿」,“koros”「殺す」がそれぞれ別々に(つまり,自立的に)現われることもあります.すなわち,

  ska-rur was-koros-ta 「私が鹿を殺した」
  鹿-を   1単主-殺す-過去

この場合は,上の「私が鹿を殺した」というのを,“ska-rur” と “was-koros-ta” の2語で表わしており,上の抱合的表現に対して,分析的表現といいます(つまり,「私が鹿を殺した」という概念を表わすのに二つの方法があるということです).ここで重要なのは,分析的表現で現われる名詞 “ska” と動詞 “koros” が,抱合的表現でもほぼ形をかえずに,そのまま現われているという点です.つまり,分析的表現と抱合的表現の両者において,用いられる名詞と動詞がほぼ同じ形式(あるいは,形式の上で関連付けることが可能)である点を押さえておいてください.

翻って,エスキモー語はどうでしょうか.テキストにあげられている例を再度,下に示します.

 qayar-pa-li-yug-a-qa
 カヤック-大きな-作る-たい-直説法他動詞-1人称単数主語・3人称単数目的語
 「俺はお前に大きなカヤックを作ってやりたい」

一見したところ,「カヤック」とか「作る」など,それぞれ名詞や動詞的概念がひとつの語の中で表わされている点で,上のイロッホ語の抱合的表現と似ているといえます.しかし,エスキモー語の場合,自立的に現われるのは,“qayar”(但し,自立的に現われる場合の形式は,“qayaq”)だけで,「作る」という概念を表わす-li はあくまでも接尾辞(つまり,他の要素に必ず付いて現われるもの)であって,自立的には決して現われることがありません.その点が自立的に現われ得る名詞と動詞を合成させてひとつの語を作ることのできるイロッホ語との大きな違いです.

一方,「複統合的」というのは,ひとつの語の中にどれだけ多くの形態素を含みこむことができるかという点(これを「統合度」といいます)からみた分類のひとつで,エスキモー語のように,ひとつの語の中に,かなり具体的な概念を表わす要素も多く盛り込むことができる言語をいいます.勿論,イロッホ語も名詞を抱合することによって,結果的にはひとつの語の中に多くの形態素を取り込んでいるわけですから,やはり「複統合的言語」ということができます.つまり,イロッホ語は,抱合的言語であると同時に複統合的言語であるといえますが,エスキモー語は,複統合的言語とはいえても,抱合的言語というのは適切ではないということです.

現在出されている言語学の入門書においては,この「複統合的」と「抱合的」を混同していたり,その両者を同一視していたりしているのがほとんどで,その両者の違いをきっちり書いているのは,皆無に近い状態です.この両者の用語の混同は,すでに20世紀初頭においてありましたが,その両者の違いを説き,抱合の最も明解な定義を与えたのは,言語学概論でおなじみのサピアです.「アメリカ諸言語における名詞抱合」という1911年の論文で,サピアは,具体例を示しつつ,抱合とは何かという問題を見事に解決しています.ちなみに,この論文,サピアが27歳の時のものですが,その論文を読むにつけ,自分は27歳の頃,一体何をやっていたのだろうと,サピアの天才ぶりと自分の凡才ぶりを比べては,ため息をついています(改めてため息).

[註]上にあげたイロッホ語は,架空の言語です(まぁ,逆から読めば・・・).
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by jjhhori | 2006-06-09 14:16 | テキスト

「能格」について

今回は,かなり高度な内容,しかも,言語学を専門とする人ですら,あまり理解していないものを扱いましたので,その復習ということで,「能格」について,もう一度ここで触れておきたいと思います(もう一つの「抱合」については,別の機会にします).

「能格」について説明する前に,術語の整理をしておきましょう.まず,述語が自動詞である文を「自動詞文」(例:「一郎が走った」「二郎が酔っ払った」など),他動詞である文を「他動詞文」(例:「三郎が四郎を殴った」「五郎が六郎を殺した」など)といいます.ここで問題となるのは,自動詞文の主語となる名詞(以下,Sとします),また,他動詞文の主語となる名詞(以下,Aとします)と目的語となる名詞(以下,Oとします)がそれぞれどのような標識で表わされるかという点です.

まず手近なところで日本語をみてみますと,上の例にもあるように,

 自動詞文:一郎-ガ[S] 走った
 他動詞文:三郎-ガ[A] 四郎-ヲ[O] 殴った

自動詞文の主語「一郎」と他動詞文の主語「三郎」が同じ標識「ガ」で示され,他動詞文の目的語「四郎」だけが「ヲ」という違う標識で示されています.言い換えると,「ガ」は自動詞の主語と他動詞の主語の標識として使われるのに対し,「ヲ」は他動詞の目的語の標識として使われているということです.このように,自動詞の主語と他動詞の主語が同じ標識(これを「主格」といいます)で表わされ,他動詞の目的語だけが特別な標識(これを「対格」といいます)で示される言語を「主格・対格型」といいます.

これに対するのがここで問題となる「能格型」言語です.能格型においては,普通,自動詞の主語と他動詞の目的語が標識を一切とらず,他動詞の主語だけが特別な標識で示されます.例えば,能格型のひとつであるエスキモー語においては,自動詞文と他動詞文は,以下のように表わされます(0はゼロの標識,すなわち,何も付いていないことを表わします.便宜上,問題となる標識だけエスキモー語の形式で示します).

 自動詞文:一郎-0 [S] 走った(日本語訳:一郎が走った)
 他動詞文:三郎-m [A] 四郎-0 [O] 殴った(同:三郎が四郎を殴った)

この二つの文で,自動詞の主語「一郎」と他動詞の目的語「四郎」が同じ標識(-0:これを絶対格といいます)で示されているのに対し,他動詞の主語「三郎」だけが特別な標識(-m:これを能格といいます)で示されていることに注意してください(但し,エスキモー語学では,この-mを「関係格」と称しています).言い換えれば,絶対格は,自動詞の主語と他動詞の目的語を表わす標識として使われているのに対し,能格は,他動詞の主語を表わす標識として使われています.このように,自動詞の主語と他動詞の目的語を同じように扱い,他動詞の主語だけを特別扱いするのが能格型の言語の特徴です.

以上述べてきたことを,自動詞主語(S),他動詞主語(A),他動詞目的語(O)を表わす標識の異同によって整理しますと,

 主格・対格型:S=A≠O
 能格型:S=O≠A

ということになります.尚,理論的には,A=O≠S(すなわち,自動詞の主語だけ特別な標識をとる)という型も考えられなくもありませんが,実際には,こうした言語は,今のところ報告されていません.

ところで,自動詞の主語と他動詞の目的語を同じ標識で表わすというのは,一見,奇異に思われるかもしれませんが,日本語でも,その昔は,「花-0[S] 咲く」(自動詞文)「花-0[O] 見る」(他動詞文)といっていたのをみれば,能格型というのは,決して特異なものではありません.日本語の場合,格助詞が整備される以前は,むしろこうした表現の方が一般的だったわけで,現代の日本語において「ガ」と「ヲ」が用いられるようになる前は,(完全とはいえないまでも)多少能格的な性格があったのかもしれません.実際,現代でも口語では,格助詞を使わない表現の方がよく観察されます(例:「私帰る」「レポートやってない」など).

まぁ,言語学概論を聞いて2ヶ月かそこらで,能格を理解しろというのが土台無理な話です.しかし,いずれは,授業の中で出てきますので(たぶん),その時が来たら,このページを再度読み返してみてください.尚,能格について興味がある人は,千野栄一『注文の多い言語学』(1986年,大修館書店)の中の「特別料理『エルガティーフ』」というのをご覧ください(「エルガティーフ」は,「能格」のことです).その特別料理,おいしいかどうかは,読む人次第です.ちなみに,私が最初それを読んだのは,大学1年の時でしたが,あんまりおいしくなく,すぐに吐き出してしまいました(苦笑).
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by jjhhori | 2006-06-01 21:05 | テキスト