授業内容の補足・推薦図書の追加・言語学よもやま話など


by jjhhori

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私にできる言語学

更新しようと思いながら,いろいろと他の事にかまけていたら,前期最後の授業が終わってから,はや1週間以上が経ってしまいました.

さて,今回は,尊大なタイトルですが,「言語学の数ある研究領域の中で,私にはこれしかできません」という意味で捉えてください.正確には,「私にももしかしたらできる言語学」でしょうか.

今年度前期の最後に読んだテキストは,「私の考える言語学」でした.著者は,チェコの言語学者スカリチカによる言語学の諸分野の3分類,つまり,
 1) 言語とその内部との関係
 2) 言語と他の言語との関係
 3) 言語と言語外現実との関係
の3つの研究領域をあげ,「自然言語を素材とし,言語とその内部との関係を探る」のが「私の考える言語学」であると述べています.

1) と2) の領域は,言語学だけで完結し,また,ある程度の方法論が確立されていますが,3) の領域は,言語学に加えて,様々な補助科学を必要とし,その方法論もあまり固まっていません.その意味において,3) の領域は難しく,1) と 2) は,相対的にまだ取り組みやすいといえます.

しかし,言語学を少しでも勉強した人なら,「いやいや,そんなことはないでしょう.1) の領域といったら,音素とか形態素とか難しい術語が次から次へと出てきてうんざり.でも3) の領域は,ことばと社会とかことばと心理とか,何だかとても面白くて,とっつきやすそうです」と反論することと思います.確かにその通りであり,3) の領域に属する,社会言語学や心理言語学は,自分の経験に照らし合わせて問題を捉えることができるので,一見したところ,面白そうに思える分野です.

しかし,上に述べたように,社会言語学にせよ,心理言語学にせよ,言語学だけで完結するものではなく,それぞれ社会学や心理学などの補助科学をしっかり修めていなければなりませんし,そもそも,方法論が十分に固まっていないために,とっかかりの面白いところから更に一層深く追究しようとすると,途端に行き詰まってしまうことが多いようです.問題は,その行き詰まった時にどうするかという点なのですが,社会言語学の場合,私がみる限り,その助けを社会学に求めるために,言語学からますます遠ざかり,挙句の果てには,言語学ともいえなければ,社会学ともいえない,鵺(ぬえ)みたいな研究が横行しているように思います.それは,上の3分類のうち,1) の領域を疎かにし,社会学に逃げ込んでいるからです.社会言語学であっても,重要なのは,言語とその内部との関係をまずしっかりおさえることであり,そのそれぞれのレベルが言語外現実とどのような関係にあるのかを探らなくてはなりません.1) の領域なくして,2) や3) の研究などできるわけがありません.

勿論,1) の領域とて,方法論が確立しているといっても,それは,3) の領域に比べれば相対的にそうなのであって,実際に1) の領域を細かくみていくと,いろいろな問題があります.言語学においては,一般的に,音素,形態素,語,文などと単位のサイズが大きくなるにつれ,その扱いが難しくなります.これは,それぞれの単位に盛り込まれる情報(意味)が増え,その組み合わせが一層複雑になるからであり,こうなると,どの言語にも妥当する一般的な方法論を確立することが難しくなります.しかし,そうはいっても,他の補助科学の助けを借りることなく,やはり言語学的なアプローチができるわけですから,3) の領域に比べれば,まだまだやりやすいといえるでしょう.

そこで,「私にできる言語学」とは何かという問題に立ち戻ってみると,結局,テキストの著者がいうところの「私の考える言語学」こそが「私にできる言語学」ではないかと思います.勿論,フィールドワークをやっていれば,現実的には,1) の領域ばかりでなく,3) の領域にも踏み込んでいかざるを得ないことがあります.しかし,1) をすっ飛ばして,いきなり3) から入るというわけではなく,土台にあるのは,やはり1) の領域です.1) の領域をしっかりとおさえた上で,関心を徐々に拡げていくのが最も健全なやり方ではないかと思います.

「20世紀の知の巨人」といわれた言語学者ロマーン・ヤーコブソン(1896~1982年)は,「われは言語学者なり,こと言語に関するものにしてわれに無縁のものなしとす」といい,実際に,言語学の領域にとどまらず,文芸評論や失語症,詩学にも大きな足跡をのこしていますが,それは,まさに巨人だからできることであって,凡人の私は,「これしかできない」といいつつも,ここで述べたことの半分もできていないのが現状です(涙).せめて残りの人生,「これだけはやった」といえるものを残したいものです(しみじみ).

さて,今年度もめでたく前期が終わりました.例年ですと,後期の間,ここは完全に放ったらかしになっているのですが,今年は,後期もちょくちょくと更新していきたいと思っています.但し,8月8日から9月7日までは,海外に出る予定でいますが,その間は,通信環境があまりよくありませんので,この「裏番組」の更新ができない点,予めお断りしておきます.
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by jjhhori | 2006-07-19 18:09 | テキスト

ことばと記憶

まぁ,大層なタイトルですが,実際は大したことはありませんので,期待して読んではいけません.

確か今年の4月ぐらいだったと思いますが,「A*Cマート」という靴屋の新聞の折込ちらしをみていたら,当時2歳6ヶ月の娘がそのちらしをみて,「ママ,靴,買ったよねー.ペコちゃんの頭,なでなでしたよねー」と突然言い出しました.

その3ヶ月ぐらい前,娘の靴を買いに「A*Cマート」に行った時,妻が娘の靴を選んでいる間,私と娘は,その店の隣にある「不*家」の前でペコちゃんの頭をなでたり,叩いたり(乱暴です.笑)して,妻が出てくるのを待っていたことがありました.「A*Cマート」のちらしをみた娘は,その時のことを思い出して言ったわけです.

そのちらしをみて「A*Cマート」だということを娘が認識したのにまず驚きましたが,それ以上に,そのちらしを見るまでの約3ヶ月間,娘からその時の出来事を一度も話すこともなければ,私たちも話題にすらしたことがなかったにも拘わらず,娘が突如としてその時の話をしたことに驚きました.つまり,その時の光景は,彼女の頭の中でしっかりと記憶にとどめられながら,そのちらしをみるまで言語化されることがなかったということです.言語化されることがなかったのは,おそらく彼女の言語能力がそれを表わし得るほどに十分発達していなかったからでしょう.

このことは,「言語なしに思考や記憶ができるのか」という大きな問題につながってくると言えるでしょう.普通,私たちは,ある出来事を思い浮かべる際,もちろん,その映像が頭に浮かびますが,例えば,「あそこにペコちゃんがあったなぁ」というように,ある程度言語化されている,言い換えれば,言語の助けを借りて記憶しているところもあるのではないでしょうか.しかし,言語能力が十分発達していない娘をみる限りにおいては,ある出来事は,言語を介在することなく,映像としてそのまま記憶されていたのでしょう.そして,言語能力が発達するにつれ,その映像として記憶された出来事を言語化し得るようになったのではないかと思います.

「記憶」という行為に言語がどれだけ関与しているのか,あるいは,言語があることによってどれだけ「記憶」が容易になっているのか,それを考えるには,言語を介さない記憶を想像することすら困難になっているほど,私たちは,言語に縛られているといえます.

尚,ことばが十分発達していないからといって,子供の記憶をあなどってはいけません.実際,「どうせ覚えていないだろう」などと高を括ってごまかそうとしたら,まさに「天網恢恢,疎にしてもらさず」,見事,見破られて大変な思いをしたことが何度もあります.まぁ,これも子育ての面白さのひとつなのでしょうが,目下,「魔の2歳」(英語でいうところの"terrible two")真っ只中の娘を相手にしている私には,そうして笑ってすませられるほど,心のゆとりはありません(苦笑).
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by jjhhori | 2006-07-09 12:28 | ことば