授業内容の補足・推薦図書の追加・言語学よもやま話など


by jjhhori
私がこの本を読んだのは大学2年の時.「言語学概論」で,担当の先生(この「裏番組」に何度も出ています)が最初の授業で紹介された2冊の本のうちの一冊がこれで(あとの一冊はいずれ出てきます),その先生は「この本を読んでつまらないと思ったら,この授業に出ちゃダメです」とまでおっしゃっていました(ちなみに,私が受けた「言語学概論」は選択科目でした).そこまでおっしゃるならと思い,従順だった,否,従順である私は,早速書店に行って,この本を買い,パラパラと読み始めたが最後,その日のほとんどをこの本に使ってしまいました.

特に,授業で取り上げた「ネズパース語研究一日目」を読んだ時の感動というのは,いまだによく覚えています.数詞の1から10までを聞いただけで,たちどころに次から次へと様々な問題に考えをめぐらす,その直観に驚嘆しました.そして,「あー,これが言語学というものか」と思うと同時に,「自分もやってみたいなぁ」などと漠然と思ったものでした.文字がなく,しかも,あまり研究のされていない言語を自分の力で解き明かしていく,その過程が実に魅力的に思えたわけです.極めて素直で単純な性格です.

今,私自身も北米先住民の言語の一つであるハイダ語を実際に研究しているわけですが,勿論,この本を読んだ当時は,自分が北米先住民の言語の記述に関わるなど,思ってもいませんでした.まぁ,どうしてそんな道に行ってしまったのか,その辺の話は別の機会に譲るとして,私自身の調査の第一日目は,こんな華麗なものではなく,当時90歳のおばあさんがお発しになるハイダ語だか英語だか分からない「ガラガラ,ッカー,ヒュルルルゥー」という音声学を超越した様々なオトに悩まされるという相当惨めなものでした.ま,今にして思えば,笑ってすませられる話ですが,当時は,大きな海原をひらひらと渡る一匹の蝶のような気持ちで,この先,この言語の研究が続けられるのだろうかと,本当に不安に思ったものでした.

自分が言語調査というものをいくばくか経験した後にこの本を読むと,「あー,それ,分かる,分かる」と思わず納得する箇所がいくつかあります.例えば,55頁に「仕事慣れがしないときは,気疲れがするものである.言語学者はことばの問題と,取り組まなくては安心できない」というのは,その一つ.私自身もやはり言語と取り組んでいる時が一番安らぐわけで,例えば,話者の人たちとの都合がうまく付かず,「じいさん/ばあさん待ち」をしている間は,気ばかり焦って,段々不安になってきます(ま,実際は,その時とばかり,遊んでいますが).逆に,調査による忙しさは,全く苦にも感じず,「あ,気が付いたら,もうこんな時間!」ということがしばしばです.私の授業を受けているみなさんとは逆の心境ということですね(申し訳ない話です).

勿論,この本では,こうした調査の面白さばかりが描かれているわけではなく,その陰の部分も書かれています.例えば,いわゆる「文化住宅」に押し込められたネズパースのおばあさんが何ヶ月かにわたって積み上げられた鮭の残骸と山のようになった汗臭い衣類の中で暮らす様子が紹介されていますが,それは,そのおばあさんがそれまでの伝統的な住居であったティーピーでの生活スタイルをそのまま文化住宅に持ち込んだからです.著者は,伝統文化の長所を失い,白人文化の長所が活かされていないと述べ,「一方的な近代化の理論」を批判しています.こういった問題は,すぐれて政治的で,また,個人で解決し得るものではありませんし,また,どこからどのように手をつけていいのか,部外者にはすぐに分かるものではありません.単なる同情心だけでは,解決し得ない,極めて繊細な問題だからです.ただ,こうした問題がネズパース族だけでなく,世界のいたるところで起きているということを世間に訴えていく必要はあります.本書は,言語学の面白さを学ぶだけでなく,そうした先住民の問題を考えるひとつのきっかけを与えてくれるものだと思います.

授業で使ったテキストは,1984年から出た「新版」ですが(元は1972年刊),その後,1998年に岩波書店から「岩波同時代ライブラリー」の一つとして復刊されました.しかし,それも絶版となってしまい,入手することが困難になってしまいました.全体を通して読んでみたいという人は,喜んでお貸ししますので,いつでも申し出てください.ま,私に借りたがために絡まれるのがイヤだという人は,古書店を探し歩くか,図書館で借りることをオススメしますが.
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# by jjhhori | 2006-05-11 10:38 | テキスト

「演習」について

新年度になり,久々の更新です.この半年以上,全く更新をしなかったのは,忙しかったこともありますが,一番大きな理由は,ここで披露すべきネタがなかったからです.しかし,開店休業状態でありながら,ここを見てくださっている方は,結構いらっしゃるようです.この授業をとっている人ならまだしも,この「裏番組」へのリンクは,ちょっと分からないところにありますので,外部からここに辿り着くのはなかなか大変だと思いますが,それでも,思った以上の人がご覧になっているのは,ありがたいことです(実際には,検索用のロボットがアクセスしているのかもしれませんが.苦笑).今年度は,授業とはあまり関係のないネタも少し披瀝し,更新の頻度を上げていこうかと少し思っています.

さて,ここからが本題です.この授業は,その名の示すとおり「演習」です.2年生の人の中には,「演習とは何ぞや」と思っている人もいるでしょうから,ここでは,これまでの失敗した経験を交えつつ,私が理想とする演習について述べてみたいと思います.

「演習」という授業は,発表者とコメントをする人(教員も含む)を中心として進みます.しかし,実際には,発表者と私だけがしゃべり,他の人は,夢と現実の世界を行ったり来たりしているか,現実の世界に見切りをつけて(?),夢の世界にどっぷりつかってしまっているかのどちらかになることが多いようです.まぁ,そうして,私が常々言っているところの「座敷わらし状態」になっても,出席したことにはなりますので,下手に口を開いて突っ込まれるより,ぼーっとしている方が安全だという気持ち,私もよく分かります.私自身が学生時代に経験した演習の中には,十数人の学生がいながら,聞こえるのは,担当の先生の鼻息だけ,しかも,それが延々10分も20分も続き,発言しようにも緊張のあまり口がカラカラに乾いて,口が利けないというようなものがありました.そういった経験から,沈黙は長くて1分,鼻息は不必要に出さない(笑)ということを自分の授業では実践していますが,結局,沈黙を長引かせないように私がしゃべってしまいますので,「演習」としては,失敗ということになるわけです.

演習でコメントを求めるのは,正しい答えを期待しているのではなく,みなさんがテキストを読んで,どういうことを感じ,どのような意見を持っているのかを知りたいからです.それによって,みなさんがどの程度理解しているかを知ることになりますし,また,「なるほど,そういう考え方もあるのか!」と,逆にこちらが教えられることもあります.そもそも,「正しい答え」というのがあるわけではありませんから,みなさんには,感じたことを堂々と述べてほしいと思います.また,発表者に,あるいは,全員に対して,「自分はこのように考えるのだけど,みんなの考えはどうか」と質問するのでも結構ですし,自分なりに調べてきたことを紹介するというのも大歓迎です.

テキストを読んで,何かを感じる,あるいは,何かに対して意見をもつには,そこに書かれている内容を自分の持っている知識と関連付ける力,あるいは,その内容に思いをはせる想像力が必要です.「つまんねぇ」「自分には関係ない」と思ったら,そこでおしまい,先には進みません.研究をする上で,「自分に関係ない」といろいろなことを切り捨ててしまうのは,実に勿体ないことで,そういう態度では,いい研究などできるはずがありません.「想像力」というのは,研究の原動力ではないかと思います.

授業には,発表者をいじめるというのではなく(いじめるのは私の役目です.笑),発表者が見落とした部分などを補って,一緒に授業を盛り上げるという姿勢でぜひとも臨んでほしいと思います.「自分は聞く側」という消極的な態度ではなく,「俺/私にもしゃべらせろ」「みんなの意見を聞きたい」という気持ちですね.自分なりに楽しみを見出しながら,出席してください.演習は,教員と学生の連帯感がなくては成り立ち得ません.結局は,発表者と教員しかしゃべらないという「二人演習」にならないことを切に望んでいます.

と,ここまで読んで,「よし,黙れというまでしゃべってやろう」という気持ちになれば幸いです.いや,何もそこまで過激じゃなくて結構です(笑).私のこれまでの経験からいいますと,6月の半ば辺りから,梅雨時と相俟って,ミョーなまったりとした雰囲気が漂うものですが,そのまったり感を追い払うよう,みなさんに協力してもらいたいと思います.ついでに,こちらの「裏番組」もよろしくお願いします.授業の2・3日後に,授業で述べたこと,あるいは,言い洩らしたことを書く予定です.

尚,発表に関しては,この「裏番組」の「よい発表とは」(2004年5月7日と8日.左上の「カテゴリ」で「授業」を選択すると出てきます)をご覧ください(少し加筆しました).
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# by jjhhori | 2006-04-27 09:46 | 授業
アイヌ語が危機に瀕する言語とされてほぼ100年近くがたつ.言語学者たちの研究は,アイヌの文化と言語,そしてアイヌ民族が消滅しかかっているという方針に基づいており,言語学者は,アイヌ語が消滅する前に,アイヌ語を保護し,記録・研究されなければならないと説き続けてきた.ところが,アイヌ語が消滅しかかっているとする100年前の見解は,強制的に押し付けられたもので,アイヌ語が多くの機能を果たし,多くの話者がアイヌ語を話していたことをみれば,あまりにも性急であったかもしれない.過去におけるアイヌに関する調査は,アイヌ族自身の観点を無視したものであり,こうした傾向はごく最近まで長い間続いていた.

北海道旧土人保護法が1899年に,また,旧土人教育規定が1901年に公布されると,同化的な教育の普及により,アイヌ語とアイヌ文化の崩壊が突如加速的に進んだ.これにより,アイヌ族は,子供たちにアイヌ語を伝えようとしなくなり,これが彼らの民族的独自性(ethnic identity)を放棄した過程の一部となった.北海道旧土人保護法によって,アイヌ族は「土人」,つまり劣った民族と扱われてきたために,彼らの中にはいまだにアイヌ族としての民族的独自性を否定する者が多い.更に,アイヌ語は価値がない,役に立たないともいわれたり,子供たちは学校や社会で差別を受けたりした.彼らがアイヌ語を話せないというのではなく,こうした状況がアイヌ語話者がほとんどいないという見解をもたらしたのである.

ここで着目すべきは,アイヌ語を復興しようという様々な努力がなされているという事実と,定義がないままに,言語学者などは,なぜアイヌ語が死滅したと結論付けたのかという問題である.「消滅する」「死につつある」「危機に瀕した」といったことばをアイヌ語に当て嵌めるのは不適切であり,また,アイヌ語そのものだけでなく,その存在すらも否定することになりかねない.

1970年代からアイヌ語教室が北海道の至る所で開かれ,1983年から萱野茂氏によるアイヌ語教室が始まり,1996年の時点で北海道で13(註:北海道ウタリ協会によれば,現在14教室)の教室が開かれている.この教室には,アイヌ族だけでなく,アイヌ以外の人々も参加しており,教室によっては,アイヌ語研究者やアイヌ語話者が協同して運営しているところもある.こうした教室では,挨拶や日常会話,口頭伝承,生活様式,文化事情などが教えられているが,二言語教育のシステムは,まだ確立されおらず,また,学校でのアイヌ語のカリキュラムもない.

1994年には,初めての一般向けテキストが発刊され,更には,視聴覚教材の開発,辞書も何点か出版されるなど,アイヌ族やアイヌ以外の人々がアイヌ語を学ぶことを楽しむ機会が増えたが,アイヌ語の方言の中には,そうした教材がないものもあり,その整備は急を要する.

北海道旧土人保護法により,日本社会へと強制的に同化させられたアイヌ族は,子供たちの前で極力アイヌ語を話さないように努め,その結果,アイヌ語は衰退していった.アイヌ語を話すことにより,彼らは子供の頃の悲惨な出来事を思い出すために,決して人前で話そうとはしなかった.過去の研究者は,アイヌ語が死滅しつつあると一方的に主張し,多くのアイヌ族がアイヌ語は役に立たないと認め,若い世代に母語を教えようとしなかったことにより,言語は衰退に傾き,そうしたことが今日のアイヌ語の状況の始まりとなったといえる.

若い世代の多くは,アイヌ語なしに育ってきているが,自分たちをアイヌとみる人の数は増えている.彼らは,自分たちが誰であるかを証明するために,何かを意識的に学び始めたが,なかでも,アイヌ語を習得することは,彼らにとってその問題を解く鍵の一つとなっている.アイヌ族としての民族的独自性と言語を復興しようという動機と労力は,互いに深く結びついている故に,アイヌ語を尊重することは意味のあることである.アイヌ語の母語話者(native speaker)の数は減っているものの,アイヌ語を学ぼうとする人の数は増えており,アイヌ族とその言語は,発達と伝承の過程にあるといえる.アイヌ語話者のための社会的環境が作られなければならないといえよう.

強調しておきたいのは,世界の文化的あるいは言語的多様性を維持することの目的の一つは,その重要性を主張し,一般に訴えることであるが,研究者たちは,用語を定義する際に是非とも慎重であってほしいということである.一方的な定義によって,その言語の話者が意図的に危機に瀕していると特徴付けられることもあり得るのである.その言語の機能的・歴史的・社会的変化も考慮に入れなくてはならない問題である.

アイヌ語を復興するのはやさしくはない.方言の中には,話者がすでにいなくなってしまったり,言語学的研究に協力する人がいないものもある.言語学的研究,財政援助,学校教育の一部としてアイヌ語を復活させる手段などを編み出すことは急務である.更に,重要な要素は,アイヌ語を学び,話し,子孫に伝えていこうとするアイヌ族の熱意である.また,快適な社会環境のためには,アイヌ語の機能と役割を回復し,アイヌ語を使うことを楽しむような条件を作り出さねばならない.それは,アイヌ語が死滅しつつあるからではなく,アイヌ語が先祖の英知と精神を備えた独特な言語として存在するからである.


Sawai, Harumi 〔澤井治美〕 1998. The present situation of the Ainu language. In: Kazuto Matsumura 〔松村一登〕 ed. Studies in endangered languages: Papers from the International Symposium on Endangered Languages, Tokyo, November 18-20, 1995: 177-89. ひつじ書房.
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# by jjhhori | 2005-07-04 10:24
言語学者は,人間の言語知識の2つの現実,すなわち,普遍性と多様性の間に作用する均衡的な緊張を称えるものである.しかし,言語の多様性は,将来も当然あるというわけではなく,多くの言語や文化が大きな危機に直面している.言語の多様性は,単に科学的な言語の探求にとどまらず,文化や芸術に属する様々な人間の活動との関係においても,人間の知的生活にとって重要である.

もし英語が唯一の言語であった場合,文法の基本原理について多くを学ぶことができようが,多様であり得る文法の性質については,これを推測し得るにすぎず,人間の言語能力の重要な点を失うことになろう.例えば,数の範疇に関わる対立についてみてみようと,英語だけを考察したところで,何も得るところはなく,数の対立(例:catとcats)が [±singular] と [±plural] のどちらで規定されるかは,ほとんど意味のない問題である.しかし,英語以外に,双数をもつ言語(例えば,ホピ語)もこの世にあったとしたら,その問題は,有意義なものとなる.このように,文法のどの領域をとってみても,言語学者の研究に対して言語の多様性が価値を有することは,明らかである.

世界の言語の多様性が貴重な資源であるという考えは,いうまでもなく,言語科学だけから導き出されるわけではない.言語は,文法以上の存在であり,広範にわたる人間の能力を包含し,それを使う民族の知的財を具現するものである.言語とその話者の知的産物は不可分のものであり,例えば,韻文,歌などのいくつかの言語芸術は,言語の形態的,音韻的,更には統語的特性に依存する.まさに芸術は,言語なしには存在し得ない.この依存関係がこれほど有機的ではない場合においても,知的伝統は,その言語とは切り離せないほどに,民族の言語民族誌の一部となっている.

こうした中にあって,それぞれの地域の言語とそれによって表わされる文化体系の喪失は,多様で興味ある知的財の取り返しのつかない喪失を意味する.

<以下,著者自身が1960年代に調査をしたオーストラリアのLardil語と,その補助言語であるDamin語の話が続く.Damin語は,ある儀式を経た成人男性が習得するもので,その地域に派遣されたキリスト教の布教団によってその儀式が禁止されてからは,Damin語の習得ができなくなり,1960年の時点で話せる人はごくわずかであった.いわゆる人工語の一つであるが,音韻面では,オーストラリアの諸言語にはみられない吸着音や世界の言語にはみられない吸気による無声側面音などがあり,語彙面では,かなり抽象化した概念を表わすなど,特異な特徴を示す(形態統語法は,Lardil語とかわるところがない)>.

Damin語は,失われてしまった事物の本質の例であり,また,言語的・文化的多様性がなくなってしまったら何が失われるかを示す例でもある.一方,言語と文化の多様性を保護することは,知的努力の伝統を永久保存することを保障するものではない.現存する伝統は変化を含意し,新しい伝統が発達するのは,まさにその地域の言語が活力をもっている場合である.

消え行く伝統を記録することはいいことであり,文化的財の完全な喪失をさけるには絶対的に必要であるが,より大きな目標は,人々の世界における多様性を守ることであろう.それこそ,多様で興味のある知的伝統が育つ環境であるからである.Damin語の例にかえってみるならば,その価値を認めるに十分な記録はあるにせよ,それがどのように変容したか,あるいは,一番重要なこととして,Lardil族の知的生活において,Damin語がどのような役割を果たしたかということに関しては,全く分からない.Lardil族が21世紀に向かってDamin語を習って使うことができるような文化的多様性を保障する安全な環境がなかったために,未来においても,その問いに対する答えを知ることはない.

Hale, Ken 1992. Language endangerment and the human value of linguistic diversity. Language 68 (1): 35-42.
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# by jjhhori | 2005-06-19 21:25 | テキスト
アメリカ言語学会の機関誌 Language の1992年(第68巻1号)では,「危機言語」に関する特集を組み,Hale, Krauss, Watahomigie and Yamamoto, Craig, Jeanne, England がそれぞれの立場から危機言語の問題をどのように捉えるかを述べています(そのうち,クラウス論文に関しては,以下の記事参照).ここに紹介するのは,それらの見解に対するラディフォギッドの反論です.

言語の保持と維持は,異なった見解が可能であるように,多面的な問題である.ヘイルたちが述べている危機に瀕する言語の話者の態度は,一般的なものではなく,実際,アフリカには,それが当て嵌まらない国もある.確かに,多くのコミュニティにおいて,言語は神から与えられた神聖なるものと見做されているが,その一方で,言語を神聖ならざるものとする見方もある.例えば,南インドのニルギリ丘陵で話されるトダ語(ドラヴィダ語族)の話者たちは,自分たちの言語を記録する言語学者を歓迎し,若者の多くは,先祖を尊敬するが,その一方で,現代のインドの一部でありたいとも思っている.つまり,彼らは,その犠牲として自分たちの言語を放棄することも認めており,そうしないように彼らを説得するのは,理非をわきまえた言語学者のすることではない.

様々な言語,様々な文化は常に保存されなければならないというヘイルたちの説く仮説はどうであろうか.そのコミュニティにとって何が最善かを言語学者は知っていると決め込むのは,言語学者の家父長的温情主義的な干渉である.「動物種の絶滅が我々の世界を小さくするのと同様,言語の絶滅も我々の世界を小さくする」(Krauss 1992:8)というのは,感情に訴えるものであって,理性に訴えるものではない.危機言語の研究というのは,言語学的な理由がしっかりとしているが,しかし,我々は,政治的な配慮に基づく議論に慎重であるべきであり,自分たちが研究している言語の話者の懸念することに敏感であらねばならない.

更に,我々は,人間の社会は動物の種のようではないことにも注意する方がよい.様々な文化がいつも滅ぶ一方で,新しい文化も興っている.一般的には,世界はますます均質化に向かいつつあるというが,それは,新しく生じている差異を我々がみていないからそのように感じるのである.例えば,ブッシュマンのZhu|oasi 族と!Xoo 族は,互いに意思疎通が図れないほどに隔たった言語(但し,ともに同じコイサン語族に属する)を話すが,他の点においては極めて似通った振る舞いをする.これらの2つのグループは,アパラチア地方の炭鉱夫やアイオアの農家,ビバリーヒルズの法律家よりも文化的に異なっているのであろうか.

この移ろい行く世界において,言語学者の仕事は,所与の言語状況に関わる事実を説明することである.我々は,かつてウガンダにおける言語状況に関するデータを集め,ウガンダで話される主要な言語間の類似点や相互理解の程度を明らかにすることを試みた.我々は,政府が言語状況を評価できるようにそれらのデータをまとめたが,その状況を変えたり,維持するのに必要な犠牲や代価を決しようとはしなかった.ウガンダが直面する苦しみと言語の消失を我々が比較考量したとすれば,それは,でしゃばりであったであろう.

1991年の夏,ケニヤで数百人が話すクシ語族の1つで,ダハロ語という急速に失われつつある言語の調査をした時のことである.私は,言語協力者の1人に10代の息子がダハロ語を話すかどうかを尋ねてみたところ,その協力者は,「聞くことはできるが,話すことはできず,スワヒリ語しか話せない」と,微笑みながら答え,それを悔いている様子でもなかった.私は,その協力者が間違っているといえるのであろうか.

Ladefoged, Peter. 1992. Another view of endangered languages. Language 68 (4): 809-11.
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# by jjhhori | 2005-06-07 18:19 | テキスト