授業内容の補足・推薦図書の追加・言語学よもやま話など


by jjhhori

言語類型論

言語類型論は,言語を記述する際の有力な武器となり得る点でとても魅力がありますが,これまたいろいろな難問が山積している分野の1つです.その理由は,いくつかあげられるでしょうが,まず,そのタイプに合致する自然言語が存在しないという問題があります.実際の自然言語は,複数のタイプにまたがった性質をもっているので,ある言語にあるタイプのラベルをつけたとしても,実際には,その程度が強いというだけのことで,多かれ少なかれ他のタイプの特徴も備えているのが普通です.こうなれば,どのタイプに属するかは程度の問題になってくるので,タイプというものの科学的な定義が一層困難になってしまいます.

例えば,孤立語の例としてよくあげられる中国語の場合を考えてみましょう.一般的に,孤立語とは,語が構造をもたないこと,それぞれの語が文の中で他との関係を一切示さずに孤立して存在することが特徴としてあげられています.しかし,前者は形態論に,一方の後者は統語論に関わる問題で,これらはおそらく分けて考えるべき問題でしょう.また,「語が構造をもたない」といっても,実際の中国語は,構造をもつ語(つまり合成語や派生語)が多く存在し,その際の手法は,膠着的なものです(例:「出版」<出版する>は,「出」と「版」という2つの要素[形態素]が膠着的に結びついたものです.cf. 「出了三版」<3版を出した>).つまり,孤立語といっても,実際の語形成の手法は,膠着的であるといえます.また,もし仮に語が構造をもたない言語があったとしたら,言語外現実に対応するひとつひとつの事象や事物に語をあてていかなくてはならず,結果的に語の数が厖大になってしまいます.実際の言語における語は,いくつかある要素(形態素)を組み合わせてできているわけで(例:「ビデオテープ」は「ビデオ」と「テープ」からなり,前者は「ビデオカメラ」,後者は「カセットテープ」という別の事物に対応する語を作る要素となり得る),そのような経済性があってこそ,言語外現実に対応して命名していくことができるといえます.

もう1つの根本的な問題は,タイプを設定する基準が一様ではないことがあげられます.その結果として,研究者によって設定するタイプの数が違ってきたり,その命名が区々になってしまうわけです.尚,研究者によっては,「孤立」「膠着」「屈折」に加えて,「抱合」というタイプを立てる人がいますが,「抱合」はいわゆる合成の一種であって,「孤立」「膠着」「屈折」などと同列に扱うものではありません.初心者向けのテキストで,「抱合語」なるものを立てる本が多くありますが,これは,全くの誤解に基づくものです.

言語類型論は,当然のことながら,多くの言語の知識を要求します.知っている言語の数が多くなればなるほど,その枠も広くなります.従って,言語類型論を考察するにあたって,最も参考になる本といえば,

亀井孝・河野六郎・千野栄一(編著)『言語学大辞典 第1~5巻 世界言語編 上・中・下1・下2・補遺』(三省堂,1988~93年)

をあげるしかないでしょう.ただこれだけをあげて終わりとすると,「ぎゃふん」と思う人もいるでしょうから,

Sapir, Edward. 1933. Language. In: David G. Mandelbaum (ed.), Selected writings of Edward Sapir in language, culture, and personality (University of California Press, 1949 [1985])

をあげておきましょう(これでも「ぎゃふん」でしょうか.笑).このサピア論文(もとは,『社会科学百科事典』の1項目)は,特に形態論的類型論に関して,語の形態的手法と語の統合度という2つの分類基準を立てているところが明解です(が,かなり難しい文章です).しかし,それでも中国語に関する扱いに問題を残しているように私には思えます.中国語という言語を類型論的にしっかり捉えることが孤立語とは何かという問いを明らかにする方途の1つであり,中国語は言語研究に実に多くの興味ある問題を提供する言語だと思います.

尚,テキストに出てきた能格構造については,千野栄一『注文の多い言語学』(大修館書店,1986年) に「特別料理エルガティーフ」というのがありますので,それを参照するといいでしょう.
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# by jjhhori | 2004-07-02 14:05 | テキスト

日本語の構造

「日本語は世界の中で最も難しい」とか「日本語は主語を省略するからあいまいな言語だ」といった,極めて無責任な日本語論が横行しているのは,言語学を専攻する者にとって,なんとも嘆かわしいことです.言語というのは万人に共通のものですから,言語に関して云々するのは言語学者の特権ではなく,言語と向き合う様々な人が加わるべきだとは思います.しかし,その多くは,日本語とヨーロッパの言語の1つか2つしか知らない人によるものであって,私たちは,そういった無責任な日本語論に惑わされない目を養うことが必要です.

さて,日本語は,江戸時代の国学に始まり,その流れを継ぐ国語学において研究がなされ,その蓄積は膨大なものがあります.しかし,その対象とするのは国語であって,日本語ではありませんでした.つまり,他言語といえば,せいぜい漢文と対照するぐらいで,他の言語との構造上の類似や相違を明らかにし,そこから,言語一般に通ずるような理論を構築することに重きがおかれることはありませんでした.「国語学」が「日本の言語学」になり得ていないということは,特に構造主義の言語学が日本にもたらされた辺りからいわれていますが,今でもその状況は変わっていないと思います.尚,その一方で,「国語」ではなく,「日本語」を研究対象とする日本語学という分野があります.それは,国語学が培ってこなかった面を研究対象とする分野(のはず)ですが,しかし,アメリカの言語学で開発された理論を日本語に適用することに汲々としているのが現状で,そのような状況が続く限り,やはり「日本の言語学」に成長する可能性は望むべくもありません.

確かに,日本語が多くの研究者によって盛んに行なわれていますから,当然,日本語そのものを扱った論文や著書は,膨大な数のものがあります.そして,それらの中には,日本語の特徴や特質を論じているものも多くありますが,そのほとんどは,国語学の人の手による独りよがりな日本語論ですので,読む時間の無駄を思えば,読まない方がいいでしょう.

そうした中で,白眉のものとして,お薦めしたいのが

河野六郎「日本語の特質」,亀井孝・河野六郎・千野栄一編著『言語学大辞典 第2巻 世界言語編・中』(1989年,三省堂)

です.これは,同辞典の「日本語」という項目の中の一編で,同辞典に収められた様々な諸言語にみられる事象をもとに日本語を捉えたものです.その中には,「アルタイ型用言複合体」とか「単肢言語と両肢言語」といった独創的な着想も盛り込まれ,まさに「日本の言語学」の一歩となるものといえるでしょう.勿論,内容はかなり高度ですが,明解に書かれていますので,ある程度の知識をもって丹念に読んでいけば,十分理解できると思います.

ちなみに,テキストの著者は,この「日本語の特質」を紹介するにあたって,「日本語を研究しているヤツはバカだから読まないか,読んでもバカだから分からないかのどっちかだ」とおっしゃっていました(苦笑).
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# by jjhhori | 2004-06-23 11:52 | テキスト

方言学

方言学というのも,これまた深くて広い分野です.つまり,膨大な研究の歴史があり,その一方で,多くの方言が存在するという状況があるだけでなく,更に,古語との関係を探るために文献学的な研究にも入っていかなくてはならないところに,「深くて広い」といわれる所以があるといえます.

しかし,私がみる限り,日本の方言研究の多くがアクセントの解明に費やされ,1つの方言を体系的に,しかも,音韻や文法,語彙などを包括的に記述した研究となるとあまりないように感じます.実際,方言研究といえば,アクセントの研究か,その土地固有の語彙を探すことであるかのような誤解すらあるぐらいで,そのような誤解が生じる原因は,これまでの方言研究が局所限定的であったからではないかと思います.

また,どの方言も等しく研究されているかといえば,どうもそのようなわけではなく,かなり詳しく記述されている方言から,ほとんど情報がない方言まで,研究の濃淡の度合いは様々です.例えば,静岡県内の方言をみてみると,特定の方言を包括的に記述した研究はほとんどなく,静岡市内に限っていえば,山間部はともかく,市街地の方言は全く記述されていないのが現状です.日本に多くの方言研究者がいながら,1つの方言の体系的で包括的な記述がほとんどないというのは,実に意外なことです.様々な方言的特徴が失われつつあるのと並行して共通語化が進行している現状をつぶさに記述するのが急務の課題であるといってよいでしょう.

さて,テキストにあげられていた本以外に何か追加しようと思っても,方言関係の本はとても多いので,なかなか選ぶのが難しいのですが,まず,授業で紹介された柳田國男の方言周圏論に関連する本として,

 松本修『全国アホ・バカ分布考:はるかなる言葉の旅路』(新潮文庫,1996年)

をあげておきましょう.この本の著者は,方言研究の専門家ではなく,大阪の朝日放送のディレクターです.本書は,「探偵!ナイトスクープ」という番組で,この「アホ・バカ」の全国分布が取り上げられたのをきっかけに,番組の後も独自の調査を行なって,「アホ・バカ」の方言語形が周圏分布をなしていることを明らかにした労作です.文章や構成にもあきさせない工夫が施されており,500頁を超える厚い本ですが,とても楽しく読めます.

テキストで,方言研究と歴史言語学の補完的な関係が説かれていますが,それを見事に示したのが

 河野六郎『朝鮮方言学試攷-「鋏」語考』(東都書籍,1945年)

です.朝鮮語の「はさみ」を表わす語は,文献学的に古く遡れる数少ない語の1つで,その方言形の地理的分布をみることにより,その語の歴史的な変遷を辿ったのが本書です.勿論,今では絶版ですので原本を直接みることはできませんが,同じものが『河野六郎著作集1』(平凡社,1979年)<図書館にあり>に収められていますし,その一部が「『鋏』語考」という題で,柴田武・加藤正信・徳川宗賢(編)『日本の言語学 第6巻 方言』(大修館書店,1978年)<図書館にあり>に入っています.ひとつひとつの手がかりから古い語形が明らかにされていく様は,推理小説を読んでいるような面白さがあります.その面白さは,一部を収めた後者でも十分味わえると思います(但し,旧字体で書かれているため,難しく感じられるかもしれません).また,後者には,1970年代までの方言研究における代表的な論文が収められていますので,それらもついでに読んでみては如何でしょうか(柳田國男の「蝸牛考」の一部も入っています).

方言を実際に調査してみたいという人は,

 小林隆・篠崎晃一(編)『ガイドブック方言研究』(ひつじ書房,2003年)

を読むといいでしょう.ちなみに,今年度の「言語学各論Ⅱ」(3・4年生対象)のテキストです(来年度も引き続き使う予定).
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# by jjhhori | 2004-06-16 10:58 | テキスト
「言語学概論」といえば,みなさんの多くにとっては,水曜日の4コマ目,ちょうどお昼寝にはもってこいの時間帯に繰り広げられる,最も忌むべき(?)授業の1つでしょう.しかも,それが必修科目の1つに指定されているわけですから,みなさんの心情は察するに余りあります.そのような授業を心から楽しいと思い,水曜日は朝から気分がウキウキだなどといえば,変人の謗りは免れないことと思いますが(笑),私が学生の時に受けた言語学概論は,毎回面白くて仕方ないという内容で,その意味で,私は幸せだったと思います(もっと幸せなことに,必修科目ではなかった.笑).更にいえば,著者による言語学概論を受けなかったら,今日の私はなかったと思います.

さて,著者による「言語学概論」は,水曜日のお昼寝時などではなく,なんと月曜日の朝1コマ目.にも拘わらず,人大講規模の教室がほぼ満杯になるという具合で,名物授業の1つだったといえます.

1コマ目の開始時刻は8時半という高校並みの早さでしたが,先生がご登場になるのは大体8時50分頃.先生は,朝のラッシュに巻き込まれるのがお嫌で,授業開始の1時間前には大学にいらしていたそうですが,学生が大体揃う時間帯を見計らってご登場になっていたようです.

先生の授業の特徴をあげるとすれば,まず第一に,マイクなし.先生はマイクがお嫌いで,それだけの大きな教室であったにも拘わらず,マイクはほとんどお使いになりませんでした.しかし,とてもよく通るお声でしたので,後ろの方まではっきりと聞こえていたようです.私は学生の時にはあまり感じなかったのですが,先生の退官記念に行なわれた最終講義のテープをたまたま聞いてみたら,かなりの早口だったことに気付きました.しかし,お声がお歳の割に若々しく,しかも発音がとても明瞭でしたので,あまりいい状態の録音ではありませんでしたが,内容が十分理解できるほど,歯切れのいい日本語でした.

第二の特徴は,ノートや資料一切なし.いつも手ぶらで教室に入ってこられ,前に座っている学生に前回の内容を確認してから,お話になるのが常でした.おそらく長年のご経験からそのようなスタイルになったのでしょうが,澱みなく,滔々とお話しになるのは,まるで講談か何かを聞いているようなほど,見事なものでした.勿論,同じことの繰り返しというのもありましたが(笑).ちなみに,私などは,手ぶらで教室に入っていくという勇気はとてもなく,ノートがないと,話があちこちにいったり,大事なことを言い落としてしまったりという不安があります.先生の域に達するのはまず無理だと思いますが,ノートとプリントをしっかり用意するというこのスタイルは,大学院の時の指導教官の影響でしょうね.

こうして約1時間ばかりお話しになった後,終了の大体10分前に「じゃ生きてたら,また来週」という,冗談だか本気だか分からないお言葉を残して,教室を後にされるのでした.

授業の内容は,その大学が外国語に重点を置いていたこともあって,それぞれの学生が外国語を習得する上でヒントとなるようなものを心がけていたと,先生ご自身おっしゃっていました.改めて,学生時代のノートをみてみると,今使っているテキストと内容がかなり重なっているように感じます(順番は違いますが).ただ,テキストの方は,ある程度の字数制限があったために,具体例や多少の説明が省かれているところがあるように感じます.授業を聞いていれば,「あぁ,あのことか」とすぐピンとくるのですが,そうでなければ,理解するのに少し時間がかかるところもあるでしょう.

学生時代に先生の授業を受けて,「言語学って面白いんだなぁ」と自分が感じたように,みなさんがそう感じる授業をしてみたいという気持ちは十分あるんですが,なかなか思い通りにいかないものです.難しいことをやさしく説くというのは,それだけ自分が十分理解していなくてはならないわけで,難しいことを難しくしゃべっているのは,要するにその本人が全然分かっていないということです.人にちゃんと説明できるかどうかによって自分がどの程度理解しているかが分かるとすれば,私は,まだまだだなぁと,言語学概論が終わった後,いつも自己嫌悪に陥っています(苦笑).

最後に,先生の授業から名言集を少々:

言語外現実に対応する人名の例:
  「いのうえ しんぞう」(分かりますか?)
ある日の授業の第一声:
  「ですから」(私は身もだえして笑いました)
休講のアナウンスの仕方:
  「来週は風邪を引きますので,休講にします」(私も時々使っています)

では,生きてたら,今度の火曜日に.
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# by jjhhori | 2004-06-11 14:22 | 裏話

ユニバーサル

すべての言語に共通してみられる普遍的特徴を「ユニバーサル」とするならば,言語学の究極の目的は,このユニバーサルの探求にあるといってもいいでしょう.すなわち,ユニバーサルの問題は,言語とは何かという問いに直結してくるからです.

このユニバーサルに関しては,テキストにあげられているのとはまた違ったアプローチが出てくるなど,迷走を極めているのが現状です.例えば,今日の理論言語学では,いわゆる「普遍文法universal grammar」なるものを想定し,あらゆる言語事象をすべてそれで説明しようという研究が多くみられます.この「普遍文法」は,当然,テキストでいうところのユニバーサルとは全く異なる概念で,私にいわせれば,単なる理論上の虚構物にすぎません.そういうものがあると信じ,日本語や英語などニ三の言語を研究しただけで,それらに相通するからこれこれの事象は普遍文法だといって憚らない言語学者などは,「A君とB君は眼鏡をかけていて,ともに成績がいい.だから,眼鏡をかけている人はみんな頭がいい」という小学生(か,それ以下)と全く同じです.そのような議論には,裏づけが一切なく,また,演繹的に考えて,なぜそのような特徴が自然言語にとって必要なのかという視点が全くありません.何でも一般的な議論にもっていこうとするアメリカ流言語学の悪い影響を受けているのでしょうが,こういうのは,不毛な議論の何者でもありません.まずは,事実をしっかりと観察し,記述しないことには,いかなる仮説も砂上の楼閣になってしまいます.

ユニバーサルの問題を扱うには,どの言語にもあると思われる素材がどういうもので,それをどのように定義するかという問題も考えなくてはなりません.テキストに出ていた母音や子音などはその1つですが,それ以外にも,語,文などなど,一般的な用語でありながら,どの言語にも通用する定義が与えられていないものが実は多くあります.そのうち,語という単位を正面から捉え,その定義を試みた,

 宮岡伯人『語とは何か:エスキモー語から日本語をみる』(三省堂,2002年)

を今回の推薦図書としてあげておきましょう.

この本は,二重分節が発話から形態素へ,更に形態素から音素へという分析の方向であるのに対し,それぞれを統合する「結節」という方向があるのではないかと主張したものです.音声面における音と音の最小の結びつき(すなわち,「結節」)が「音節」であるとするならば,記号面における最小の結節が「語」であると考え,これまで等閑に付されてきた「語」の定義を見直したものです.

タイトルから分かるとおり,エスキモー語の例がふんだんに出てきますし,内容もかなり高度なので,1回読んだだけでは,とても理解できるものではありません.マルティネの本を十分理解してから,読み進めるといいでしょう.著者については,テキストの「言語調査」を参照(もっといえば,私の大学院の時の指導教官でした.あなおそろしや・・・).

ところで,三省堂から出た『言語学大辞典』の第4巻「世界言語編・下2」の最後に「編修後記」というのがあります(署名は,「編修委員会」となっていますが,実際の執筆者は,このテキストの著者).その末尾に,

「ここで示された事実は,一方では言語の多様性であり,他方では,そのような多様性にもかかわらず,なお,言語として1つの枠に入るという一定の共通性である」

という一文があります.その枠がすなわちユニバーサルかどうかはひとまずおくとして,それが何かを解明していくのが今後の言語研究の課題であるといえるでしょう.
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# by jjhhori | 2004-06-08 17:14 | テキスト