授業内容の補足・推薦図書の追加・言語学よもやま話など


by jjhhori
昨日に引き続き,著者ネタ第3弾.

『ビールと古本のプラハ』(白水社)というエッセイ集をお出しになるほど,著者のビール好きは有名でした.朝日カルチャーセンターでチェコ語を教えていらした頃は,授業の後,その受講生とほぼ毎週ビールを飲んでいたそうです.その本には,その店が開店していつ頃のビールが一番おいしいかも十分説得力のある理由とともに詳しく説かれていますので,ビールが好きな人はぜひ一読をすすめたいと思います.

私はお酒が一切飲めませんが,酒宴にお供したことは何度かあります.ある時,ビアホールで飲み物を注文するのに,お酒が飲めない私はどうしたものかと悩んでいたら,すかさず「ホリくんは,中国語をやっているから,そんな口に卑しい酒なんて飲まないよ」と助け舟を出してくださったことがありました(註:中国語で「ビール」は口偏に「卑」に「酒」と書きます).お酒がお好きといっても,単に飲んで騒ぐのではなく,その場の雰囲気を楽しむのが目的で,そのために,場を和ませるのがとてもお上手だったように思います.

また別の時ですが,店員の手元がくるって,ピッチャーに入っていたビールをこぼしてしまい,それがその近くにいたT先生の袖にかかったことがありました.店員はお詫びの印ということで,こぼしたのとは別にピッチャーをもう1つ持ってきてくれたのですが,その時の先生の一言:「ビールがなくなったら,Tくんのもう片方の袖にかけてもらって,もう1杯ただでもらおうよ」.

私が知る限り,先生は決して酔っ払われることがなく,お酒が相当お強かったと思いますが,それでも,プラハに留学される前は全くの下戸で,学生時代は全然お酒が飲めなかったそうです.先生が飲めない人に対して無理強いをなさらなかったのはそういうところに理由があったのでしょう.

東京の神田に「ランチョン」というお店があり,私は神田の古本屋を回った後,そこでランチを食べるのを楽しみの1つにしていますが,そのお店は,ビールがおいしいことで有名で,先生もよくそのお店に出入りなさっていたということを,お亡くなりになってから知りました.そのことを知ってからは,「折角ランチョンに来て,ビールを飲まないなんて,バカだねぇ」とあの世からいわれそうで,最近はあまり行っていません(苦笑).
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# by jjhhori | 2004-06-04 17:18 | 裏話
今週は,創立記念日にぶつかり,授業が1回飛んでしまいましたので,せめて「裏番組」には何か書いておこうということで,著者ネタ第2弾を.

著者を知る人は,著者を評して「毒舌家」といいます.とにかく,ダメなものはダメ,いいものはいいというのが実に明解で,授業中も著名な言語学者の名前を出しては,「**はバカだ」とはっきりとおっしゃっていました.多少先生の偏見が入っていたのかもしれませんが,しかし,いわれてみればなるほどと思うことがその後になっていろいろあり,先生のおっしゃっていたことはある意味真実だったと思います.それだけ,人を見る目は確かで厳しかったということです.

ゼミでは,ヨーロッパ系の言語をやっている人は,先生がそれらの言語に通じていることもあって,うかつなことをいうと厳しく突っ込まれていました.特に,英語を研究している学生に向かっては,「あーた,中学,高校と散々英語をやって,まだ英語やるの?もっと他に面白い言語があるんだから,それをやりゃいいのに,バカだねぇ」とよくおっしゃっていましたので,英語の学生の中には先生を嫌う者も少なからずいたようです.

しかし,「バカだ」とおっしゃっても,言われた学生も笑っていたので,罵倒などではなかったと思います.先生が心底「バカだ」と見做していたのは,一部の言語学者と同僚(笑)で,私もとある先生のことでご相談したら,先生はものすごく憤慨なさり,「あんなバカの世話にはなるな.私が面倒をみる」とかばってくださったことがあります.実際,学生や弟子に対して「バカだ」とおっしゃることは絶対になく,とても学生思いの先生でした.

先生が2度目に入院なさった時,友人とお見舞いに行くつもりでいたのですが,あいにく私はどうしても抜けられない会議があって,一緒に行けず,結局,その友人が1人でお見舞いに行きました.その時,先生は聴力を失っておられ,こちらの意思を伝えるには専ら筆談でしたが,お口の方は相変わらずお達者で,「アイツはバカだ」「今度出た本,あれはダメだねぇ」と連発されていたそうです.お見舞いから帰ってきた友人から先生のご様子を聞いて,「あぁ,まだお元気なんだな」と安心したのですが,そう思ったのも束の間,それからほどなくして,不帰の客となられました.あの毒舌がもう聞けなくなったのは本当に残念です.

と,まぁ,こんなことを書いていると,「アイツはバカだ」といわれかねないので,今日はこの辺にしておきましょう.
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# by jjhhori | 2004-06-03 18:17 | 裏話

社会言語学

社会言語学というのは,一見,とても面白そうに感じるのですが,実は,とても難しい分野です.一方では言語,他方では社会という,それぞれ混沌とした異質のものの間に相関関係を見出そうというわけですから,かなりの程度の困難を強いられるのは,当然といえば当然です.勿論,両者の間に相関関係があることは確実ですが,しかし,そのことを証明するために,言語がない社会を想定することが現実的には不可能ですので,決定的な証拠が得られないという弱点があるのも事実です.

そうはいっても,言語と社会の間に相関関係を想定することが全く不可能というわけではありません.とりわけ,ある話者が複数の言語を使い分けているような場合は,その使い分けの要因が社会にあることを実証するのは比較的容易です.いわゆるコード・スィッチングやピジン・クレオールの問題は,社会言語学が最も得意とする領域であるといえるでしょう(ピジン・クレオールの問題に関しては,テキストを参照してください).

それ以外にも,単一言語社会における話者間の様々な差異(地域差,年代差,階級差,職業による違いなど)も,その要因がはっきりとしている点において,やはり社会言語学的な処理が簡単にできるといえるでしょう.とりわけ,単なる語彙の使用における差異だけでなく,音声面や文法面において差異が現われる場合は,社会言語学的に興味ある問題を提供します.しかし,要因がはっきりしないそれ以外の場合となってくると,社会言語学は,まだ十分な理論的あるいは方法論的基盤をもっておらず,それゆえに,説得力のある根拠を見出すことが難しくなってきます.研究対象をラングだけでなく,パロールも含めようとするのが社会言語学の目的であるとするならば,パロールをどのように捉えるかがいまだ十分な理論的基盤をもっていないところに,社会言語学が蔵する自己矛盾があるといってもいいでしょう.その点において,社会言語学が方法論を開発することに懐疑的であるという著者の考えはもっともであると私は思います.

そうした行き詰まりからか,昨今では,「**語には,これこれの単語がある.ゆえに,この社会は**社会だ」といったような研究が横行していますが,これは,その話者の言語に対する無意識性と,言語が歴史的所産であることを全く無視した暴論であるといわざるを得ません.それは学問の領域ではない話であり,いくら真剣に検討したところで,科学としての言語学がそれに対して有効な措置を講じることはあり得ません.こういうことを真剣になって議論しようとする一部の「社会言語学者」は,具体的な言語の観察と記述を疎かにしているように私には思えます.たとえ社会言語学をやるにしても,基本は,具体的な言語の観察と記述であり,そのような基盤がないまま,社会言語学をやっても所詮素人の域を脱し得ません.早い話がフィールドワークを基礎としていない社会言語学というのはあり得ず,社会学がフィールドワークに基づいてデータを蒐集していることを考えれば,それを補助科学とする社会言語学がフィールドワークを必要とするのは当然のことです.昨今の社会言語学には,データの性質や扱いに関して,疑問を感じさせるものがとても多く,データの蒐集の仕方が杜撰な点は否めません.これは,データを重んずる社会言語学にとっては致命的なことです.

社会言語学に関して,信頼がおけ,かつ,方法論的基盤がしっかりした本となると,皆無に近いのですが,そういう状況の中にあって,以下の本は,豊富な用例とともに具体的な分析方法が示されると同時に,社会言語学の限界にも触れている点で,おすすめできると思います(しかし,一部,首を傾げたくなるような章もあり).

ロメイン,スザーン/土田滋・高橋留美(訳)『社会のなかの言語:現代社会言語学入門』(三省堂,1997年)
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# by jjhhori | 2004-05-21 23:20 | テキスト
テキストの著者は,どんな人でしょうということで,よもやま話を少々.

お顔は,カバーに写真がありますので,お分かりですね.しかし,著者を知る私としては,この写真,ある意味,貴重です.というのも,スーツをお召しになっている.先生がスーツをお召しになっているのをみたのは,数えるほどしかなく,いつもカジュアルな服装でした.むしろ表紙の絵の方が私には馴染みが深く,研究室を訪ねると,大体こういう感じでお座りになって,下から見上げるように「それで,あーたねぇ」(註:「あーた」は「あなた」)とおっしゃるお姿がいまだに目に浮かびます.特に,チャペック兄弟協会が作った深緑のセーターの印象が強いですね.

表紙のイラストには,エミール・ガレの作品がいくつもあったり,チェコの作家との書簡があったり(チェコの文学作品の翻訳書も多く出されています),あるいは,「原稿は鉛筆でいつも書く」というあたりに,先生を知る人は思わずニヤッとしてしまうものですが,それを嘆息に変えてしまうのは,先生の蔵書の多さです.

カバーを外してみましょう.そうすると,「第2サティアン」というのが出てきます.要するに本だけの部屋.「第2サティアン」には,主にチェコ文学の本があり,更に,「第1サティアン」と「第3サティアン」というのがあって,「第1」には言語学とスラブ学関係があり,「第3」には構造主義,チェコ文学,スラブ語学関係から精選したものがあったそうです.勿論,これらは別宅で,ご自宅にも相当な量の本があったようです.先生がお亡くなりになって,それらの本の一部がいくつかの大学の図書館に寄贈されたそうですが,それらがどのように利用されているのか,私はよく知りません.

先生の蒐書ぶりは,半端ではなく,研究室(私のそれの2倍はありました)の本棚は本で溢れかえり,更に床にも本が平積みになっていて,ちょっとかばんがあたると,それらの本の山を崩してしまいそうでしたので,その本の山の間にできた谷を慎重に歩かなくてはなりませんでした.更には,研究室の外の廊下も,本が詰められた段ボールが何十箱と並んでいるほどでした.ちなみに,先生のお嫌いな質問の1つは,「これらの本を全部読んだんですか?」というもので,「こんなの全部読んだら,キチ*イになっちゃうよ」とおっしゃっていたものです.

先生がお書きになった古書蒐集のエッセイには,『プラハの古本屋』(大修館書店),『ビールと古本のプラハ』(白水社)があります.これはおすすめです.特に古本屋好きにはたまらない本です.尚,前者を読んだら,先生の師匠であられる徳永康元先生の『ブダペストの古本屋』(恒文社,絶版)を一読することをお薦めします.これもたまらん1冊です(笑).

ちなみに,言語学の人には古本屋好きが多いようで,古本屋めぐりが嫌いなのは,言語学をやってはいけません(笑).私も国内外を問わず,旅先でまずどこに行くかといえば,古本屋です.おかげで観光名所をいくつ見逃したことか・・・.

こんなことを書いていたら,久々に古本屋めぐりをしたくなってきたではないか.静岡で堪能できないのが残念です.
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# by jjhhori | 2004-05-21 18:43 | 裏話

比較言語学

比較言語学は,印欧語比較言語学に限っていうならば,広くて深い世界です.「広い」というのは,研究するにあたって,英独仏露はいうに及ばず,ラテン語,ギリシア語,サンスクリット語,(更には最近研究がすすんでいる)ヒッタイト語といった古典語を修めなくてはならないということであり,「深い」というのは,19世紀から綿々と続いている研究をしっかりおさえなくてはいけないということです.そもそも研究書が読める程度になるまでの外国語を1つ習得することですら大変なのに,それを4つも5つも要求されるわけですから,まっとうに印欧語比較言語学をやろうというのは,まさに畢生の大業だと思います.

そもそも,言語学に限らず,どの学問分野に関しても,その学史,つまり,学問の歴史は知っておかなくてはなりません.今問題になっていることの背景には,やはり歴史的な流れがあるからです.言語学に限っていえば,言語学を志す人は当然言語学史をおさえておくべきで,その知識なしで,現在流行っていることをやっても意味は全くありません.そして,言語学の場合,その学史をおさえる上で重要なのが印欧語比較言語学です.従って,印欧語比較言語学の広くて深い世界にもぐりこまずとも,どのような研究がなされ,その時代背景はどうであったかぐらいはしっかり理解しておかなくてはなりません.

確かに印欧語比較言語学は,「敷居の高い」分野ですが,それを分かりやすく説いている入門書として,テキストにあげられている本に加えて,次の1冊をあげておきます.

高津春繁『比較言語学入門』(岩波文庫,1992年)

これは,もともと『比較言語学』という題で1950年に岩波全書の1つとして出されたものを,旧字体を新字体に,横組を縦組に改めたものです.文庫本だと,新字体だけれども縦組(いろいろな語例が出てくると読みにくい)という点が,一方,旧版だと,横組で読みやすいけれど旧字体という点がそれぞれ難点ですが,そのどちらを優先するかは,自分次第です.それはさておき,この本は,内容がとても明快で,まさに「入門」というに相応しいものです(ちなみに,私が学部生の頃は,文庫本がありませんでしたので,古書店で手に入れた旧版を読みました).

授業の時にほんの少し触れましたが,印欧語を話す民族がもともとどこに住み,どのような社会制度や文化習慣をもっていたかを探る方法を紹介したものとして,

風間喜代三『印欧語の故郷を探る』(岩波新書,1993年)

をあげておきます.これは,テキストの中で紹介されていた同じ著者による『言語学の誕生-比較言語学小史-』(岩波新書,1978年)の印欧語の先史研究に関する部分を補ったものといえます.

日本語の系統に関しては,

服部四郎『日本語の系統』(岩波文庫,1999年)

があります.1959年に出版された同名の本がもとになっていますが,特に,厳密な手法をもって琉球語との音韻対応を記述しているあたりは,今なお熟読する価値があります.しかし,文庫だからといって,電車の中で読み通せるようなものではなく,岩波書店もよくこんな難しい本を文庫にしたものだと思います(笑).

印欧語以外の比較言語学の入門書で,しかも日本語で読めるものというのは,残念ながらなさそうです(そんなのがあれば,私もほしい.笑).あえてあげるとすれば,漢字という直接的に音声を表わさない文字を用いている中国語の古い形を再構する方法を説いた,

平山久雄「中古漢語の音韻」,牛島徳次・香坂順一・藤堂明保(編)『中国文化叢書1:言語』(大修館書店,1967年)所収.

をすすめます.表音文字を使っている印欧語は,音=文字の関係があるという点で,直接的に音韻対応を探るのが容易だったわけですが,中国語はそのような状況に恵まれていませんので,そこにまず大きな障害があるといえます.この平山論文は,その障害をどのように克服し,隋の時代の中国語の音韻をどのように再構するかを説いたものです.但し,初級者向けとはありますが,内容はかなり高度です.

こんなようなところで,比較言語学の世界に少しはまってみては如何でしょうか.但し,抜け出せなくなっても知りません(笑).
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# by jjhhori | 2004-05-18 17:53 | テキスト