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授業内容の補足・推薦図書の追加・言語学よもやま話など


by jjhhori

Ladefoged: Another view of endangered languages

アメリカ言語学会の機関誌 Language の1992年(第68巻1号)では,「危機言語」に関する特集を組み,Hale, Krauss, Watahomigie and Yamamoto, Craig, Jeanne, England がそれぞれの立場から危機言語の問題をどのように捉えるかを述べています(そのうち,クラウス論文に関しては,以下の記事参照).ここに紹介するのは,それらの見解に対するラディフォギッドの反論です.

言語の保持と維持は,異なった見解が可能であるように,多面的な問題である.ヘイルたちが述べている危機に瀕する言語の話者の態度は,一般的なものではなく,実際,アフリカには,それが当て嵌まらない国もある.確かに,多くのコミュニティにおいて,言語は神から与えられた神聖なるものと見做されているが,その一方で,言語を神聖ならざるものとする見方もある.例えば,南インドのニルギリ丘陵で話されるトダ語(ドラヴィダ語族)の話者たちは,自分たちの言語を記録する言語学者を歓迎し,若者の多くは,先祖を尊敬するが,その一方で,現代のインドの一部でありたいとも思っている.つまり,彼らは,その犠牲として自分たちの言語を放棄することも認めており,そうしないように彼らを説得するのは,理非をわきまえた言語学者のすることではない.

様々な言語,様々な文化は常に保存されなければならないというヘイルたちの説く仮説はどうであろうか.そのコミュニティにとって何が最善かを言語学者は知っていると決め込むのは,言語学者の家父長的温情主義的な干渉である.「動物種の絶滅が我々の世界を小さくするのと同様,言語の絶滅も我々の世界を小さくする」(Krauss 1992:8)というのは,感情に訴えるものであって,理性に訴えるものではない.危機言語の研究というのは,言語学的な理由がしっかりとしているが,しかし,我々は,政治的な配慮に基づく議論に慎重であるべきであり,自分たちが研究している言語の話者の懸念することに敏感であらねばならない.

更に,我々は,人間の社会は動物の種のようではないことにも注意する方がよい.様々な文化がいつも滅ぶ一方で,新しい文化も興っている.一般的には,世界はますます均質化に向かいつつあるというが,それは,新しく生じている差異を我々がみていないからそのように感じるのである.例えば,ブッシュマンのZhu|oasi 族と!Xoo 族は,互いに意思疎通が図れないほどに隔たった言語(但し,ともに同じコイサン語族に属する)を話すが,他の点においては極めて似通った振る舞いをする.これらの2つのグループは,アパラチア地方の炭鉱夫やアイオアの農家,ビバリーヒルズの法律家よりも文化的に異なっているのであろうか.

この移ろい行く世界において,言語学者の仕事は,所与の言語状況に関わる事実を説明することである.我々は,かつてウガンダにおける言語状況に関するデータを集め,ウガンダで話される主要な言語間の類似点や相互理解の程度を明らかにすることを試みた.我々は,政府が言語状況を評価できるようにそれらのデータをまとめたが,その状況を変えたり,維持するのに必要な犠牲や代価を決しようとはしなかった.ウガンダが直面する苦しみと言語の消失を我々が比較考量したとすれば,それは,でしゃばりであったであろう.

1991年の夏,ケニヤで数百人が話すクシ語族の1つで,ダハロ語という急速に失われつつある言語の調査をした時のことである.私は,言語協力者の1人に10代の息子がダハロ語を話すかどうかを尋ねてみたところ,その協力者は,「聞くことはできるが,話すことはできず,スワヒリ語しか話せない」と,微笑みながら答え,それを悔いている様子でもなかった.私は,その協力者が間違っているといえるのであろうか.

Ladefoged, Peter. 1992. Another view of endangered languages. Language 68 (4): 809-11.
by jjhhori | 2005-06-07 18:19 | テキスト